USA日記

 1991年、アメリカ広報・文化交流庁(※以下、USIA)から International Visitor として1カ月ほどアメリカを回ってこないかという打診があった(このときの推薦者は金関寿夫さんと迫村裕子さん)。テーマは「エスニック・カルチャー」。むこうにいって実際に作家やアーティストや出版社の人たちと会ってこいということだった。そのころジュマーク・ハイウォーターなど、インディアン作家による作品を訳していたのが評価されたらしい。それからもうひとつ、このプログラムはアメリカを紹介するという目的もあるので、アメリカによく行っている人は除外されるらしい。ちなみに金原は留学経験はまったくなく、アメリカには一度も足を踏み入れてなかった。イギリスには大学三年生の終わりに1カ月ほど遊びにいっただけである。

 USIAがアメリカ国内での旅費、宿泊費をすべて負担してくれて、さらに通訳兼エスコートをひとりつけてくれるとのこと。つまり、こちらは日本とアメリカの往復の旅費を持てばよいとのことだった。そして、もどってからのオブリゲーション(義務)はなし。報告書を書く必要もない。当時、長い大学院生活と非常勤生活を終えてやっと法政大学に専任講師として入ったばかりの貧乏な金原にとって、これほどうれしいことはない。というわけで、喜んでお受けした。

 アメリカ大使館に呼ばれていってみると、川端康成の手紙が額縁に入れて飾ってあった。ご招待ありがたいが、病気のため残念ながらご遠慮申し上げる……というふうな文面だったと思う。

 色々お世話をしてくださったのが大使館の松元美紀子さん。早速、打ち合わせが始まった。まず期間だが、こちらは大学で教えなくてはならないので、1カ月の休みをとるとしたら夏しかない。しかし夏は、向こうも夏休みである。だから、夏といっても9月くらいのほうがいいだろうとのこと。そこで大学のほうは一週間ほど休講にして、9月いっぱいアメリカにいくことにした。というわけで、その年の8月29日、まずワシントンに到着。この日記はそこから始まる。

 

・()はこの日記を公開する際に書き足したもの。
・()は編集注。

出発の日、家の最寄り駅で

8月29日(土)

 ワシントン、ダレス空港到着。エスコート兼通訳、マイクさん。空港からそのままワシントンDCのエンバシー・スクエアー・スイート・ホテルに直行。近くの本屋やデリカテッセンを教えてもらい、次の日からの活動に備える。早くも本屋でテープや本を買い込む。ノーマン・ラッシュの『ホワイツ』という短編集が面白そう。のちにニューヨークで『メイティング』という本も買うことになる。ボッシュの絵を用いた表紙が印象的。『ホワイツ』の最初の短編は、「ブルーンス」で、これは Keteng という町(村?)を舞台にした連作のひとつ。ブルーンスというヨーロッパ人が、この村にとけこめず、ヨーロッパ的な倫理と道徳観のために、村の有力者とぶつかってしまうといった話。
 この本屋でカエターノ・ヴェローゾのテープも買ったが、あまり感心しない。

 


 

8月30日(日)

 近くの古本屋にいく。ペーパーバッグもハードカバーもおよそ半額。その他、ヨーロッパの版画や、古い本の挿絵なども売っており、日本の明治の版画(浮世絵)も売っている。ここで、スコット・ママディやレスリー・シルコウ、ほかの作家の本を買う。17、8世紀のコインの本があり、あとで買おうと思って、次の日にいってみたら、みあたらなかった。残念。

 午後、フィリップス・コレクションにいく。有名なルノアールの「船の上のパーティ」をはじめ、とくに印象派の名画がずらりと並んでいる。また、ムンクに似た暗いタッチの北欧の女流画家の作品の展示もあった。たしかフィリップス・コレクションは個人のコレクションで、現在、政府からの援助を受けて、運営されているらしい。建物といい、内容といい、さすがにアメリカの金持ちは違う。そういえば、1階から2階にあがる途中の踊り場に、野球の絵がかけてあるが、マイクさんによれば、これは社長フィリップス(先代?)の奥さんの描いた絵で、以前は奥さんの絵が5、6枚かけてあったらしいが、次の代になってからは、これを1枚残すだけになったという。

 アメリカのサンドイッチは、そう安くはないが(デリカテッセンで買う場合、5ドルくらい)、内容も味も誠実で、感心してしまう。サブスタンシャルというのは、こういうのをいうのだろう。数日後、ニューヨークでタクシーに乗った際に、運転手から「日本じゃ、コーヒーが5ドルもするんだって? そんなに高かったら、アメリカ人は買わない。チャイナタウンのレストランじゃ、ただだしな。アメリカじゃ、普通75セントくらいが相場だぜ」といわれた。そういえば、そんなものだ。カフェでエスプレッソが75セント、ダブルつまり2倍はいったやつが、1ドルちょっとだ。

 しかし日本とは店の造りが違う。どれもこれもアメリカのカフェというやつは、ドトールかそれ以下だ。レストランでもそんな感じで、カフェラミル級の雰囲気と味の喫茶店はホテルにでもいかなくては無理だ。それに、滝沢のような目的のために作られた喫茶店もみかけない。いったい、連中はどこで商談なり、相談なりをしているのだろう。まさか、あんなにうるさいカフェなんかじゃ、とっても無理だし。やっぱりオフィスかな。

 そういえば、あちこちの役所や協会や美術館のオフィスなんかによく行くことがあるが、飲み物を勧めてくれるところは、3分の1くらいだ。USIA(※アメリカ広報・文化交流庁)やIIE(※国際教育協会)では勧めてくれる。客がくればすぐにコーヒーという日本とはちょっと違う。

 夕方、マイクさんの家でバーベキューをごちそうになった。奥さんと息子さんのジェイムズ君がいて、なかなか楽しかった。ジェイムズ君はよくいる大学生タイプの青年。もう卒業しているけど、職がないとのこと。1番上の息子さんは癌研究所にいるらしい。2番目は娘さんで、学校の教師をしていたが、もどってくるらしいとのこと。

 ジェイムズ君はいまSFの講座をとっているらしく、アメリカのSF作家のことを話してくれたが、あまり詳しくはない。こちらのほうがはるかによく知っている。しかし、トニ・モリスンという黒人作家のことを教わったうえに、本までもらった。なにかの講座で読まされたのだろうか、所々にマーカーで印をつけてある。

 それにしても、さっきせっかく6ページまで打った原稿をぜーんぶ消してしまったのはくやしい。けど、さっき消したのはかなりオフィシャルなもので、今まで打ってきたようなものは、まったくはいっていない。つまり、さっき消してしまわなきゃ、こんな文章を打つことはなかったのかもしれない。同じことを2度打つのは大儀だし、それにもうあまり覚えていない。まだワシントンにきたばかりのことを打っているはずなのに、ちょこちょこニューヨークでのことが混じるのは、今、これをニューヨークはマンハッタンで打っているからだ。正確にいえば9月5日午後5時から、それまでの続きを打ちはじめて、ワシントンの章を終えて、ロムカードに登録しようとして、なんと全部、消してしまったのだこのとき持って行ったオアシス・ポケットは小さいロムカードに記録保存するようになっていた)。まあいいか。

 とりあえず、この日は分厚いステーキをごちそうになって、ホテルにもどる。念のために胃薬を飲むことにする。太田胃散。もうひとつ気になるのが咳。

ワシントンのホテル

 


 

8月31日(月)

 さて、月曜日。USIAのバーバラさん、IIEのシンシアさん、キャロルさん、アンドリアさんの4人と、これから1カ月間の打合せをする。こちらは、エスニックといっても、とくにアメリカ・インディアン関係の人に会いたいと強調するが、むこうとしては広くアメリカン・エスニックの文学を知ってもらいたいらしい。いちおう日本の大使館の依頼ではエスニックの作家ということになっているので、あまり強くは主張しないことにする。ユードラ・ウェルティなんて名前まででてきた。おいおい、南部の女流作家じゃないか、とは思ったものの、日本でも有名な作家なので、会えたら会えたでうれしいかもしれない。

 あれこれ話し合った結果、ミシシッピ州ジャクソンあたりへもいくことになった。いわゆるディープ・サウスというあたりだ。風土としては面白いし、今回をのがしたら、一生いくことはないかもしれない。あとはホノルルにいくか、ロスにいくかということが議論されたが、それはまかせることにする。ハワイの作家というのも興味はあるが、どんなものかさっぱりわからないので、ちょっとこわい気もする。

 このあと4400ドルほどの小切手をトラヴェラーズ・チェックに替えにいく。日本円にしておよそ50万円ほど。かなりの金額のように思えるが、これで食料およびホテル代、その他雑費をはらってしまうと、あとどのくらい残るか心配は心配だ。

 マイクさんは銀行まで連れていってくれると、あとはあっさりと「私は用事があるので」といっていなくなった。まさか、こんなところでほっておかれるとは思ってもみなかったので、道順なんてさっぱり頭にはいっていない。おぼろげな記憶をたよって、もどってはみたものの、途中からわからなくなってしまった。街角に立っている新聞売りの女の子にきいても、デュポン・サークルを知らないし、スタンドの女の子も知らない。結構有名なはずなのに。通りかかったおじさんが、やっと教えてくれた。

 ホテルに帰り、古本屋に寄って、それから食料を仕入れて帰る。毎回レストランで食事をするほどの余裕はない。古本屋や本屋に寄るたびに100ドルチェックが飛ぶようになくなっていく。それにテープやCDも買いたいし。

 ホテルにもどってから、絵はがきを片っ端から書きまくる。こういうのはできるだけ早めにだしておいたほうがいい。こちらが日本にもどってから、絵はがきが着くというのは間が抜けている。絵はがきはワシントンの風景を撮ったいかにも、いかにも、という絵はがきとフィリップス・コレクションの絵はがき。相手を考えながら、どちらをだすかを決める。

 


 

9月1日(火)

 インタビュー
 National Capital Area Chapter of the American Translators Association
 名前不明、あとで名刺をみること。
 アメリカで最大の翻訳者協会で、通訳もふくんでいる。現在登録しているのは4200名くらいで、登録するためにはかなり難しい試験に合格しなくてはならない。このところ毎月120人から150人くらいの加入者があり、今年中には5000人を越えるのではないか。
 協会の活動としては、年1回の大会、雑誌の発行、年鑑の発行などがある。

 インタビュー
 Association of American Publishers
 キャスリーンさん
 主に版権関係のことを扱っている協会で、こちらの求めていることとは関係ない。
1970年創立、現在、240の出版社が加盟している。大きい出版社が多いが、大学出版社などもはいっている。出版社の大型化の傾向はこのところ非常に強く、ほかの企業が出版社を吸収、合併することも珍しくない。たとえばパラマウントはサイモン・アンド・シュースターという出版社を併合したが、このシュースターの傘下にはさらに250ほどの中小の出版社があるという。こういった大型化の傾向は1980年代からのものらしい。こういった傾向により、出版の可否が、会社の重役のようないわゆる素人によって決められるといった場合がないこともないが、他方利点として、PRや流通が簡単になるし、冒険もできるようになるといったことがある(とくに訴訟問題がからみそうな場合など)。

 また小出版社は、大型出版社のあいだをかいくぐって生きのびていく可能性は高い。いわゆるニッチをねらうわけだ。

 また出版界全体の傾向としては、ロマンスものなどの軽いエンタテイメントが減って、シリアスなものが増えてきた。また、最近本を読むアメリカ人が増えてきているし、電車のなかなどで本や新聞を読んでいる人をよくみかけるようになったという。また車で通勤するときにオーディオブック(※本の朗読が入ったカセットやCD)をかける人も増えてきたらしい。それから子供の本がよく読まれるように(買われるように)なってきたという。低俗なテレビ番組よりは本をという傾向が強くなってきたのかもしれない。

 


 

9月2日(水)

 インタビュー
 National Endowment for the Arts
 ペニーさん
 これは1965年に、アメリカの芸術や芸術家を支援、援助するために設けられたもので、様々な活動を行っている。年間予算1億7500万ドル。この10年間ほど、予算は据え置かれたままだという。日本でいえば文化庁にあたる。いちおう表向きはアメリカの芸術や芸術家となっているが、その方向性としてはエスニックの芸術、芸術家が中心となっている。また援助の対象は非営利目的のものに限られる。

 たとえば文学関係の場合、予算は400万ドルで、対象は個人と出版社になるが、個人を対象とした援助は奨学金の形で与えられる。年間2万ドルの支給が行われる。定員は100名で、応募者はおよそ3000人。26人の委員により、名前をふせた作品の審査によって、決定される。委員は大統領の任命。

 また非営利団体の小出版社にも援助は行われている。こういった出版社は年間5冊から10冊くらいの本をだしていて、出版部数も3000から5000くらい。これらの出版社は、ここからの援助がなくてはやっていけないところが多い。こういった出版社の出版物としては、フィンランド系アメリカ人のアンソロジー、アジア系アメリカ人の女性作家のアンソロジー、アメリカ・インディアンの作家のアンソロジーなどがある。

 ここの活動は、奨学金、出版社への援助のほかに、文化活動の活性化があり、詩の朗読会を開いたり、文学的なヴィデオ制作の援助なども行っている。

 またエスニック芸術の支援という柱はあるが、人種のみならず、地域にも焦点があてられていて、ニューヨーク、ワシントン、ロサンゼルスといった都市以外における芸術活動の活性化にも力がいれられている。たとえばサンタフェ、アルバカーキなど。つまり援助をする対象を選ぶのに、人種、性別、地域性などが考えられるということ。

 出版社の大型化の傾向について。これまで出版社というものは、スクリブナーズ社にしてもヴィンテッジ社にしても、そもそも大きいものはなかった。それが最近、吸収合併が進んで大型化し、その傾向とともに、文学離れが目につくようになってきた。小出版社がそこにうまくはいっていく可能性は大きい。

 インタビュー
 Howard Univ. Press
 会ったのは3人。あとで名刺参照のこと。
 アフロ・アメリカン、アフリカ系アメリカ人のものを中心に扱っている。ハワード大学はもともと黒人大学として発足。ハワード大学出版局の出版方針については送っておいた出版目録をみること。

 とくに最近の注目される本としては、『キャバラケイド』(全2巻)。これは1760年から1954年までの黒人による文章を網羅したもので、2巻ともに1000ページ弱の膨大なものになる予定。
 また『スプリット・イメージ』は、様々なメディアにおける黒人を歴史的に扱ったものだ。さらにロシアにおける黒人を扱ったものもある。
 また『GIダイアリー』は、ヴェトナム戦争が背景となっている。

 このところの傾向、あるいは方向としては、アメリカ在住の黒人だけでなく、アフリカにルーツを持つ人々を世界的に捉えていこうとしている。黒人自体が世界中を飛びまわって活躍しているし(アメリカ生まれでカナダ育ちで、現在ブラジルに住んでいるといった例は珍しくない)、また現代という時代そのものが、広い視野で黒人を捉えることを必要としている。ナイジェリアの作家J・P・クラークの作品集をだしている。詩集、戯曲集、サガの3冊。

 この日は、芸術基金といいハワード大学出版局といい、ずいぶん収穫があった。とくにハワード大学出版局のものは日本に紹介したい。ここに法政大学出版局のカタログを送ること。

 インタビュー
 American Museum of the American Indian
 Herman Viola、John Medicen Crow のふたりについて調べること。また “The Light of  Other Days” という作品についても。Before Columbus Fundation が American Book Award という賞をだしている。エスニック文学に対してだされるものらしい。あとでニューヨークで出会うことになるミゲルさんもこれを受賞している。

 ここで相手をしてくれたウィンチさん(?あとで正確な名前を調べること)は、音楽家でもあって、アイルランド音楽を演奏している。楽器はアコーディオン。日本でも彼のアルバムがリリースされているらしい。また詩人でもあり、American Book Award を受賞している。詩集をもらう。ついでにサインも。日本に帰ったら、礼状をだしておこう。

 ウィンチさんにエスニックの定義はときかれて、「ホワイト・アングロサクソン以外」と答えたところ、プロテスタントかどうかってのは大きいんだよな、といわれた。そういえば、アイルランドは頑固なカトリックの国だ。このウィンチさんというのが、またとても感じのいい人で、機会があったら、ぜひ日本で演奏してもらいたいものだと思う。

 ところで、 National Museum of the American Indian というのはまだできていない。21世紀にはできている予定だそうだ。

 


 

9月3日(木)

 インタビュー
 Library of Congress
 アメリカ議会図書館。ずいぶんでかい。

 インタビュー
 American Folk Center
 アメリカの民族学的な資料はここにそろっている。
 エドワード・カーティスの写真集をさがしてもらったところ、224冊もでてきた。しかもこれは1968年以降のものばかりだという。

 インタビュー
 Poetry and Literature Center
 デイヴィッドさん
 なにをしてあげようかといわれたので、「どういうことをしてるんですか?」とたずねたところ、「ジェネラル・レファレンスだから、本のことならなんでも調べてあげる」という。早速、1990年以降のインディアン関係の本をプリントアウトしてもらった。ずいぶんな数だ。そのあと、どんなジャンルのものが好きなのかたずねてみると、「詩」という答えが返ってきた。早速、アメリカの現代詩の傾向について教えてもらう。

 面白かったのは、Language 派と呼ばれる詩人たちのことだ。これはもともと詩の雑誌のタイトルで、この雑誌に寄稿している人たちの流れをさして、こう呼ぶらしい。これは言葉を Object としてみる傾向で、論理的な意味を無視して、その音、フィーリングといったものを重視する実験的な詩が多い。ニュー・フォーマリズムといってもいい。また、古い詩の形式(ミーター重視、定型詩など)に、新しい言葉をはめこむような試みも行われているらしい。こういった詩は10年くらい前から書かれていたが、この2、3年、注目されてきている。

 とても感じのいい人で、日本に帰ったら、日本の詩集を送ると約束してしまった。忘れないようにしよう。

 インタビュー
 Congressional Research Service
 ここは国会のための翻訳サービス。議員や秘書からの翻訳の依頼に答える所で、まったくのおかどちがいというやつだった。が、相手をしてくれたデイヴィッドさんは、親切な人で、とても面白かった。日本の古い文学の話や、議会の翻訳の裏話をしてくれたり。
 ここは早めに切り上げて、ホテルにもどり、空港へ直行。ニューヨークへ。

 夕方、ニューヨーク到着。あいにくの雨。タクシーでマンハッタンのシェラトン・マンハッタン・ホテルへ。とにかく騒々しい街だ。タクシーはひっきりなしにクラクションを鳴らしているし、車は混んでいるし、それになによりごみごみしていて……なかなか快い。東京がもうちょっと乱暴になったら、こんな感じかもしれない。そういえば、ジョン・レノンが住んでいたというアパートの前を通ったが、こんなうるさいところで眠れたのだろうかと思うくらい騒々しいところだった。

 ホテルはワシントンとは一転して、スペースは半分くらいで、とても現代的な部屋。もちろん鍵はカードで、部屋には暗唱番号をインプットする金庫やコーヒーメーカーまでついている。

 一服してから、ホテルのレストランで軽い食事。バドワイザーの生ビールに、イカフライ・トマトソース添え。ついてきたパン3つのうちひとつ食べて、残りは部屋に持って帰る。あしたの朝食にちょうどいい。

 


 

9月4日(金)

 リンダさん(International Visitor の世話をしてくれるProgram Officer)に会いに、ホテルから10分ほど歩いていく。とてもやさしそうな女性で、ぼくの着ていたクレーのTシャツをとても気にいってくれた。「ワシントンの、デュポン・サークルの近くの店で買った」というと、「あっ、その店、知ってるわ。前にワシントンに住んでたの。あの店、なかなかセンスいいでしょう」といった話になった。ここに本を持っていけば、無料で日本まで送ってもらえるらしい。

 ここでの挨拶が終わると、ゴサム書店へ。雰囲気のいい書店で、品揃えも十分。ついでにここの絵はがきもしゃれていたので、しっかり買っていくことにした。もちろん本もしっかり買ってしまった。また、100ドルチェックが飛んでいく。レジのお兄ちゃんが、買った本のなかにあった “Divina Trace” をさして、「これは、すっごくいい本だ!」といったので、ぼくは、やはり買った本のなかにあったベン・オクリの本をさして、「これも、すっごくいいよ!」と教えてあげた。”Divina Trace” というのは半分人間、半分カエルという少年の話らしい。裏表紙によれば、「カリビアンのジェイムズ・ジョイス」なんて言葉があった。早めに読めるように、航空便で送ろう。

 重い本のバッグを持ってホテルに帰る途中で、チキン・カバブというのを試してみる。それもスペシャルを。これはアラビア・パンに、鉄板で焼いたチキンと玉ネギやトマトをはさんだものだが、中身がすごくたくさんはいっていて、そのままではかぶりつくことさえ不可能なため、プラスチックのスプーンがついてくる。屋台のそばの花壇のふちにすわって食べたが、最後まで食べるのにずいぶん時間がかかった。これとコーラで4ドルほど。サブスタンシャルってやつかな。

 ホテルで一服してから、National Museum of American Indian にいくことにする。マイクさんは用事があるとかといって、ゴサム書店をでてすぐに、バスでの行き方を説明してそのままどこかへいってしまった。いちいちバスを乗りついでいくのも面倒なので、タクシーでいくことにする。1階から3階まで、かなりの量の展示品がある。さすが。入口のそばの売店では、インディアン関係の本をたくさん売っていたので、また100ドルチェックを何枚も切ってしまった。

 ところが困ったことに、外にでてタクシーを拾おうとしたところ、そんなものが走っていない。マンハッタンのはずれにあるためだろう。しばらく待っていたが、あきらめてもう少しにぎやかな所まで歩くことにする。中心部にむかって歩いていったが、なかなかタクシーにお目にかかれない。たまに通りかかっても、止め方がまずいのか、無視されてしまう。あとでわかったのだが、アメリカでは道路に踏みだして大げさなジェスチャーで止めるのが普通のようだ。そのうちやっと、道路の真ん中で車を止めておりてきてなにやらやっている運ちゃんがいたので、必死に走っていって乗せてもらった。話好きな運ちゃんで、東京のコーヒーの値段とか、セントラルパークのこととか、あれこれしゃべってくれた。

 ホテルにもどって、20分ほどして、ロビーにおりていく。5時半にマイクさんと待ち合わせて、7時半から芝居をみにいく予定になっている。場所は Nuyorican Poets Cafe。日本でいろんなことを教えてくれたゼインさんが推薦してくれた所だ。たぶん。

 Nuyorican Poets Cafe

 地下鉄でローワー・イーストあたりで降りる、が、マイクさんは場所を間違えていてずいぶん歩くことになる。そのうえ途中で買い物なんぞをしたために夕食をとる時間がなくなり、デリカテッセンで簡単にすませることにした。なんとか開演時間ぎりぎりに飛びこむと、入口で、もぎりのおじさんが喜んで迎えてくれた。この人が、このカフェの経営者兼詩人のミゲルさんだった。ま、話はあとで、ということで、入場料の15ドルを払ってはいると、なかはまさにカフェで、白いテーブルと椅子が適当にまくばってある。その奥に舞台。壁は煉瓦がむきだし。カフェの入口よりの半分は2階になっているが、奥半分は吹き抜けで、天井には照明その他の装置がぎっしり並んでいる。2階分のスペースとはいうものの、日本の感覚だと3階分くらいの高さはある。入口をはいって右側にはスタンド形式のバーがあって、ビールやソフトドリンクを売っている。食べ物はない。ビールは3ドルくらいかな。

 客はほとんどいないうえに、なかなか芝居も始まらない。30分くらいしてやっと始まったが、出演者は10人くらいで、客もぼくたちをいれて10人くらい。芝居のほうは、黒人の青年画家が白人に殺され、それをめぐっての葛藤が中心で、リアリスティックな作品、ひっきりなしに行われる場面転換は、『セールスマンの死』に似ている。まずまずのでき。だけど、内容があまりよくわかっていない。英語がよくききとれない。

 このあと10時から Poetary Slam という詩の朗読会が始まるというが、始まったのはやはり40分くらい遅れて。これはかなりの人気で、始まるころには5、60人くらいはいって、店はいっぱいで、立ち見もでるほど。まずゲストの中国系アメリカ人の詩人ジェニー・リンによる詩の朗読。アクトレスかと思うくらいの演技力とパワーで、観客を圧倒する。小さな体からほとばしるエネルギーに、客は大喜びだ。日本風のおとなしい詩の朗読会を予想していたので、これには驚いた。寺山修二がみたら喜びそうなパフォーマンスだった。

 そのあと、4人の詩人(おそらく素人)がでてきて、それぞれの詩を朗読し、観客のうちの何人かが10点満点で点をいれて、総合点を競うゲームがはじまる。これがまたなかなかの熱気で、とても楽しい。

 


9月5日(土)

 朝、マイクさんとホテルのロビーで待ち合わせて、ロレンゾ・クレイトンというインディアンのアーティストに会いにいく。ホテルからフェリー行きのバスに乗って、船着場までいき、そこからフェリーで5分ほどいくと、もうニュージャージ州。あいにくの曇りで、マンハッタンのビル街はあまりきれいにみえなかったが、涼しかったから我慢しよう。ロレンゾが車で迎えにきてくれた。10分ほどでマンションへ。ハイウォーター(※アメリカ・インディアン作家)のインディアン・アートの解説書でみてリクエストをだしておいた。ロレンゾもハイウォーターのことはよく知っている。マンションで、60くらいのおじいちゃんといっしょに住んでいる。このおじいちゃんというのがまたまた、いい雰囲気をだしていて、うれしくなってしまった。ロレンゾは親切で人当たりもいいが、ずいぶんパワフルな感じの人で、話し方もハイウォーターに似ている。部屋で早速、インタビュー。

 略歴は別送の資料にあるので、省略。1950年生まれ、ニューメキシコ州のキャニオンシートに生まれる。これはアルバカーキの南西。お母さんはフランス人とスコットランド人の血を受け継いだ、いわゆるコケイジャン(※白人)。お父さんは生粋のナバホ。名前は Chorti(「頭脳から指先への最短距離」の意)。ロレンゾは5、6歳までナバホ族の保留地でくらすが、両親の離婚のため、アルバカーキの学校に通うことになる。高校のころから美術に興味があり、3年間軍隊にいったのち、奨学金をもらって、クーパー・ユニオン(※NYにあるアートや建築の大学)に学ぶ。海洋学にもひかれていたが。決定的な影響をうけたのはゴッホの、麦畑にカラスが飛んでいる絵だという。その他、デクーニ、クリストなどが好きで、スチュアート・ダイアモンドも評価(画風としてはコレクティヴ・インフォメーション。テクノロジー+自然)。

 クーパー卒業後、現実的な問題に直面。
 リザベーション(※政府指定保留地)にいたころの影響は大きく、そもそもインディアン的な感性が身についていた。ごく自然な形で抽象化ができる。インディアン・アートの本質は抽象である。なにかを描こうとすると、そういった感性がにじみでてくる。
そんな話をきいたあとで作品を置いてある倉庫に案内される。ちょうどぼくの身長くらいの抽象画(+オブジェ)が7つ、8つ並んでいる。圧倒的な迫力。7年がかりの作品だという。

 最近は、ナバホ族の砂絵をモチーフにした作品に取り組んでいる。部屋にあった砂絵の本のタイトル “Navajo Medicine Man Sand Paintings” by Gladys A. Reichard, Dover

 アトリエもみせてもらうことにする。電気屋にはいっていった、その奥がアトリエというか作業場になっていて、砂絵をモチーフにした作品が、いくつかある。どれも未完成。これは、という可能性を感じさせる。

 このあと近くのレストランで昼食。ぼくはロレンゾと同じく、ハンバーガーを頼む。焼きたてのハンバーグに、生の玉ネギの5ミリくらいの輪切りが添えてある。なんとも強烈だが、うまい。日本にもどったら、ためしてみよう。

 さて、またマンハッタンのホテルにもどる。5時くらいにカワノ君カワノ君は、法政大学社会学部を卒業して東大の大学院に入って、このときちょうどニューヨーク大学に留学していた)がくるはず。と思っていたら6時を過ぎたころにふらりとやってきた。ビンガムトンから4時間かけてバスでやってきたらしい。まずは腹ごしらえで、近くのシーフードの店にいって、サラダとワインとロブスターを1匹ずつとる。ロブスターはスープがついて16ドル95セント。ニューヨーク価格でも安いらしい。店はいっぱいで、日本人の女の子ふたりのグループが、「あの、なにを注文するといいですか」ときいてきた。

 腹が一杯になったところで、ホテルで一服して、それからまたニューヨリカン・カフェにくりだす。今晩は10時半から La Nueva Conspiracion の演奏があるという(Unstoppable Latin Jazz)。ラテンをきくのもたまにはいいだろう、と思ってはいっていくと、ミゲルが歓待してくれて、ついでにビールまでおごってくれる。客まばら、いたってまばら。なんだかんだと話していて、そのうち客がはいってきて、演奏が始まったのが12時くらい。超一級の演奏で、1曲目からしびれてしまった。なんともいい音をだしている。すげえ!という感じ。とくに背が低くて、しぶい声で歌っているおじさんが最高にいい。ハンフリー・ボガートをラテン風にして、もっとしぶくして、背を低くした感じのおじさんだ。声もいいし、雰囲気も抜群にいい。こんな演奏が、ほぼただできけるなんて、ちょっと信じられない。ミゲルに引っ張りだされて。何曲か踊ると体がふらふら。ミゲルは最初から最後まで、だれかを引っ張りだしては踊っている。なんともタフなおじさんだ。

 朝から活動していたので、さすがに睡魔が襲ってきた。1時半ごろにおいとまする。ミゲルは、明日、うちにこいと誘ってくれた。それからヘルナンデスという女の子も、絵をみにきてくれという。カワノ君と相談して、両方にのることにした。
 ホテルでは、そのままひたすら寝る。

 


 

9月6日(日)

 カワノ君と朝飯を食って、あたりをぶらぶらしてから、ミゲルの家までタクシーでいってみると、なんとミゲルがいない。書き置きがアパートの入口のところに張ってあって、「ラジオ局にいくから、会えなくなった」とのこと。ううむ、なんといいかげんなやつだ、とふたりであきれながら、近所の店をひやかしてまわる。本屋もまずまず。で、昼食だが、カワノ君がインド料理が食いたいというので、周りをみまわしたら、目につくところすべてがインド料理の店。おそらくこの界隈には20軒くらいあるにちがいない。そしてどの店もほとんど、からっぽ。こんなんでいいんだろうか。はいった店も、ぼくたちふたりきり。料理がでてくるまでにけっこう時間がかかったけど、味はまずまず、納得のいく味だった。料理がでてくるのに時間がかかったので、ヘルナンデスさんのところにいくのが15分くらい遅れてしまった。公衆電話から電話をしてもでない。

    

 ヘルナンデスの「マザー」

 

 訪ねてみると、なかなか良い部屋で、赤ん坊がばか可愛い。ヘルナンデスの絵は、あたりはずれが大きいが、いいものはすごくいい。とくに「マザー」というタイトルの版画は抜群。現在36歳。プエルトリカンで、6カ月のころにアメリカにやってきて、両親は働いていたために、ほとんどお祖母さんに育てられた。母親は彼女を白人のように育てたかったらしく、ずっと白人の学校に通っていた。幼いころから絵や詩に興味があり、その興味を育てていった。しかし、プエルトリカンとしての自分を表にだすようになったのは、ミゲルと知り合って、感化をうけてからだという。旦那は国連で、エレクトリック・テクニカル・エンジニアとして活躍しており、ニューヨリカン・カフェにも力を貸しているとのこと。ミゲルはとても彼に感謝している。ヘルナンデスは詩も書いていて、それを歌にしてうたったり、旦那の演奏をバックに朗読したりするらしい。カワノ君が、「これがロマンティックでいい」というと、早速、そばで朗読をはじめた。この、ものおじしない、というか、恥じらいがない、というか、こういったところがアメリカの詩人のいいところだ。それに、詩は朗読するものだという認識、これもいい。

 彼女の言葉で印象深かったのは “I dream what you left behind.”。
 彼女の家をおいとまして、ホテルに帰り、カワノ君をバスのターミナルまで送っていく。ブロードウェイはちょうど歩行者天国で、人がびっしり。

 さて、カワノ君をバスに乗せてホテルにもどり、一服して、ふたたびカフェへ。今度はカフェの壁にかかっていた絵を描いたクリスに会いに。タクシーの運転手が、ずいぶん乱暴なやつで、もう少しで前の車とぶつかりそうになる。本当に危機一髪のところだった。そのうえ、カフェをみつけられない。しかたないから、途中でおりて、歩いていく。戸口でミゲルが待っていた。なかにクリスとキュレイターのソニアがいる。今日、絵をおろすのだという。次はアメリカ・インディアン・アートの画家のものを展示することになるらしい。みられないのが残念だ。カフェの中、クリスの絵

 それにしてもクリスは若い。28だというが、18でも通りそうだ。エネルギッシュに自分の絵を語ってくれた。アメリカの画家も、やはり、話しだすと止まらない。なにもいわずに、この絵をみてくれ、といった日本的なアーティストはアメリカにはいないのではないか。それにしても、旧約聖書に題材をとった、何枚かの絵は、どれもユニークでパワフル。全部買って帰りたいくらいだこのとき買った絵は、現在、岡山のアートガーデンの常設になっている)

 クリスも、またアフリカンとしての血を認識していて、絵がどうしても抽象へと傾いていくという。そしていろんなアーティストの作品をスポンジのように吸収している。28でこんな絵を描いてしまったら、いったい次にどんな絵を描くというのだろう。恐ろしい感じさえする。が、本人はいたってのんきで、あれこれ抱負を語っている。
 ミゲルと、明日の昼の食事をいっしょにする約束をして、カフェをでる。

 


 

9月7日(月)

 今日は Labor Day で全国的な休日。アメリカでは州による休日と全国的な休日の2種類がある。この日、セントラル・パークのあたりでは、昔風のかつらをかぶった人たちの仮装行列があるらしい。が、あまり興味がないので、ホテルでぼーっとしている。1時すぎにミゲルから電話があり、外で待っているからこいという。おりていってみると、道路にとめた、母親からゆずってもらったというブルーのポンコツ車(本人にいわせると貴重なクラシックカー)のそばに立っている。車はなかもスポンジがはみだしたり、ドアがちゃんとしまらなかったり、とにかく古い。マニラのタクシーにひけをとらない。その車で2、3分くらいいってフランス料理のレストランにはいる。ほかの客は1組だけ。ホタテのコキールとビーフシチューをとる。そのあとエスプレッソをとって20ドル。まずまず。しかしとにかく量が多い。ワインだけでなく、料理にもハーフサイズがあればいいのに。

 ミゲルが、明日、絵を持っていくので、日本の訳者ミゲルの詩集は日本でも出版されている)に届けてくれないかという。重くなければOK、というと、じゃあ、よろしく。明日は午前午後ともに用事が入っているので、午後6時くらいに、ロビーから電話してくれといっておく。

 昼食のあとは、あたりをぶらぶらして、本屋によって、夕食を買って帰る。帰ってから、たまっている日記(これのこと、ここの部分はニューヨークの空港のレストランで打っている)を打つことにする。

 


 

9月8日(火)

 午前中、ノートン(W. W. Norton & Company)の編集者ジェラルドさんに会う。アメリカ・インディアン作家(ジェイムズ・ウェルチの編集者はこの人)、ラテン・アメリカの作家、アジア系アメリカ人の作家についての情報をもらう。またノートンからでたアンソロジー(全米図書賞をもらった作家による)を2冊もらう。1冊は詩集、もう1冊は小説だ。ちょうど着ていった、ヘルナンデスのデザインによるニューヨリカン・カフェのTシャツをみて、「かっこいいじゃないか」といってくれた。彼もこのカフェのことはよく知っていて、全米図書賞のアンソロジーが出版されたときの出版祝いは、このカフェでやったそうだ。

 昼食はブラッセリという24時間営業のフランス・レストラン。レバーのソテーにキャベツとアスパラガスのスープ、それからエスプレッソで20ドルほど。それにしても、チップという習慣は面倒だ。

 地下鉄でターンパイクまでいって、バスに乗り、クィーンズ・カレッジまで。ここの教授、ラバサー氏はラテン・アメリカ文学の紹介、翻訳で有名。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』の翻訳も、彼である。小柄で温和な、学者タイプ。スペイン語、ポルトガル語からの翻訳が多い。とくにブラジルの作家に詳しい。ボルヘス、カルペンティエール、ドノソ、リョサといった日本でも有名な作家の話が次々にでる。リョサの『緑の家』の登場人物をほかの作家が拝借したりといったエピソードも。
「どうして、世界的に、こんなにラテン・アメリカ作家がもてはやされるのか」とたずねたら、”Oh, because they are good.” という茶目っけたっぷりな答えがかえってきた。このラテン・アメリカ文学を支えている、もう古株の作家をつぐ、次の若い作家たちがまだはっきりした形としてみえてこないが、まあ、そのうちでてくるだろう、ということだった。

 もちろん、若い作家も次々にでてきてはいるらしい。たとえばブラジルに住んでいる日系の女性作家で英語で書いている人もいるとか。

 ともあれ、ジョイスの話、ジョイスのポルトガル語訳の話、『神曲』のミーターをそのまま英語に翻訳した訳の話、ガルデル、ピアソラのタンゴの話、ボルヘスがタンゴを嫌っていた話、カエターノ・ヴェローゾの話など、話題はあちこちに飛んでいったが、話しているだけで楽しくなってくる、気のいいおじちゃんだった日本に帰ってしばらくして、『百年の孤独』を訳した鼓直さんに、法政の八王子校舎にいくバスのなかでお会いした。このときのことを話すと、「いやあ、あの作品、けっこう難しくて、英訳本にもかなり助けてもらいました」とおっしゃっていた)

 というわけで、クィーンズ・カレッジをおいとまして、バス停へ。しかしなかなかバスがこない。40分ほど待って、やっとくる。時刻表もないから、しかたないか。そういえば、バスも地下鉄も同じトークン(1ドル25セント)で乗れる。料金均一だ。便利でいい。

 ホテルにもどって、一服してから、ミゲルの電話を待っていたが6時30分になってもこないので、航空便で送る本をいれる箱を買いに、ウルワースまで。店のなかにほうってある化粧品かなんかの箱をもらっていけばいいのだが、ちょっと気がひけて、ちゃんとメール・ボックスを買うことにしたが、これが間違い。小さすぎて、ふたつ上下にくっつけて使うことにする。

 ホテルで、明日の出発の準備。
 9時ごろ、ミゲルからの電話。サテライト・スタジオでの仕事が終わらないので、いけない。明日の朝の8時ごろはどうか、という。OK。と返事をしておく。

 


 

9月9日(水)

 やっぱりミゲルはこない。9時にロビーにおりていって、マイクさんに手伝ってもらって、本を Program Officer のリンダのところに持っていく。船便だが、無料で送ってくれるとのこと。ありがたい。ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックスの編集に会えなかったおわびをいっておく。Program Officerのリンダさんにお土産をあげて、ホテルにもどり、今度は航空便の荷物を持って、郵便局へ。本の小包がひとつ、もうひとつの小さい包みはフィルムとテープ。両方あわせて100ドルちょっと。アメリカの郵便局の場合、料金の半分しかトラヴェラーズ・チェックがきかないのだが、今日のスペイン系のおじちゃんは、「かまわん、かまわん」といって100ドルのチェックを受け取ってくれた。ワシントンでは、ぶっきらぼうな黒人のおねえちゃんに、だめといわれて、しかたなくでっかいメールバッグを持って、もう一度出直さなくてはいけなかったのに。

 そろそろチェックアウトして、でかけようかというときになって、ミゲルから電話。用事でいけなくなったのだが、ロサンゼルスのホテルに送るから持って帰ってもらえないだろうかという。ええい、面倒な、と思いつつも、国際親善、国際親善と自分にいいきかせながら、ほがらかな声でOKと答える。それにしても、時間にいいかげんな、おっさんだ。ラテン系だからなのかな。結局、ロスにも届かなかった。)

 ニューヨーク出発。ホテルの前からバスで空港まで。およそ40分くらい。買った絵は、大きな荷物といっしょにだすと、痛むおそれがあるというマイクさんの忠告に従って、機内に持ち込むことにした。飛行機はニューヨークを出発して、まずシンシナティに。そこで乗り換えて、ミシシッピ州ジャクソンへ。今、ちょうど、その飛行機のなかで、これを打っているところ。やっと、追いついた。午後8時ごろだが、まだまだ明るい。飛行機はデルタ航空。国内の飛行機は、なぜかどれも遅れ遅れ。早くても30分くらい遅れる。真面目な日本人としては、いらいらしてしょうがない。

ミシシッピの沼

 ミシシッピ州ジャクソンに到着。マイクさんはレンタカーを借りて、その車でホリデーインまで。ホテルはいままでで最低だが、値段も最低なので、文句はない。安ければそれにこしたことはない。2機の飛行機でそれぞれ1回ずつサンドイッチがでて、ふたつともしっかり食べたので、さすがに夕食を食べる気にはなれない。が、しょっぱかったので、喉がかわいてしようがない。ホテルのバーにいって、ビールをたのむ。バーテンが、なにがいいかとたずねたので、バドワイザーと適当に答えたところ、隣にすわっていたおじさんが「正解!」といって、話しかけてきた。50位の太ったおじさんで、眼鏡をかけている。彼にいわせると、ビールというのは2種類しかないそうだ。ひとつはバドワイザーで、もうひとつは、その他もろもろのビール。ミシシッピ州デルタで生まれ育ったとのこと。綿花、大豆、トウモロコシなどの農産物のほか、最近はナマズの養殖がさかんらしい。話好きのおじさんで、1時間くらい、あれこれ話してくれた。ミシシッピ魂と大和魂は似ているとのこと。「第2次世界大戦のとき、アメリカでは日系の部隊が最も勇敢に戦ったが、司令官はミシシッピ出身の男だった。ミシシッピの人間も日本人も、名誉を大切にし、勇敢だ」日本に住んでいたことがあるらしく、根っからの日本びいき。家が燃えなかったら、招待したいところなんだがといっていた。判事と弁護士をやっているらしい。家が燃えたときに4、5千冊の本も燃えてしまったという。とにかく、面白いおじさんで、ついでにビールまでおごってもらってしまった。日本に帰ったら、忘れずに礼状をだすこと。

 


 

9月10日(木)

 午前中、アーロンさんに会いにいく。NAACP(※全米黒人向上協会)のチェアマン。やけに忙しい人で、15分くらいでインタビューをすませる。そのあと Smith Robertson Museum へ。ここはジャクソンにはじめてできた、黒人のための小学校で、今は当時の資料を展示している。空き家がちらほらならぶ通りをぬけて、鉄の網にかこまれた、学校というにはちょっと小さい建物がある。入口でベルを鳴らすと、女の人がでてきて、案内してくれた。学校の歴史をたどった写真や、歴代の校長の写真、黒人の医師、歯科医などの紹介、当時の生活を物語る荷馬車、車、写真館のなか、家のなか(寝室、キッチンなど)、の展示があって、とても興味深い。建物の真ん中の部分が吹き抜けになっていて、テーブルを並べて、レストランになっている。まわりの壁に絵がかけてあって、いくつかは値段がついている。なかでも1枚、サム・マニュエルという画家のものが特別によかった。ここのキュレイターに連絡をとってもらうことにした。ついでに、ジャクソンに住んでいる作家の名前をきく。

 南部の田舎料理

 昼食は Bully という南部の田舎料理の店へ。小さな店だが、前には20台くらい車が並んでいる。テイクアウトもできる。キャット・フィッシュ(ナマズ)のフライに、つけあわせがカブの葉の煮物、サヤインゲンとベーコンの煮物、マフィンふたつ。どれも量がすごい。ナマズのフライも掌くらいのやつが5枚だ。2枚残して、マフィンといっしょに持って帰る。

 そういえば、南部ではあまり喫煙をうるさくいわない。だいたいタバコを産している土地だ。無理もない。

 帰る途中の踏切で、貨物列車の通過を待つ。これがとろくて、人が歩くくらいの速さで動くうえに、長い。ときには100両くらい連なっているときもあるという。今回は4、50両で短いほうらしい。それでもかなり時間がかかった。

 昼間一服してから、トゥガルー大学のもと学長、ジョージさんに会う。トゥガルー大学は、私立で、警察がはいれなかったため、1960年代の市民権運動のときなどに、キング牧師、ジェイムズ・ファーマー、ジョン・ルイスなど多くの指導者たちが逃げ込んだり、ここで計画を練ったりした。「当時なら、私がこんなところにきて、黒人運動の話をするなど考えられなかった」という。そのころは黒人の医者もいたが、黒人しか相手にできなかった。現在、黒人の地位は向上して、法的にも公的にも平等が認められてきたが、経済的な面ではどうしても白人並みになることが難しく、フラストレーションが生じてきている。他方、黒人の台頭によって、白人とのフリクションも生じてきている。

 好きな作家は、アリス・ウォーカー(トゥガルー大学で創作を教えていたこともある)、ラルフ・エリソン、ゾーラ・ニール・ハーストン(とくに “Dust Tracks on the Road” )。

 4時から、郵便局にいって、飛行機代425ドルを送り、そのついでにショッピング・モールにいってみる。アメリカでは現在、ショッピング・モールが重要な役割を果たしているという。ばかでかいスーパー兼デパートといった感じで、映画館などがはいっていることもあり、所によっては、1万台くらい車のとめられる駐車場のついたところもあるらしい。秋もののジャケットを買う。50ドル。

 


 

9月11日(金)

 9時半に待ち合わせて、ミシシッピ州フィラデルフィアにあるリザベーションへ。道は広く、車は少ないので、80から100キロくらいで飛ばす。街をはずれると、あちらこちらに軽井沢風のコテッジのような家がある。だいたいが黒人の住んでいる家で、それからさらにすこし郊外のほうへいくと白人の家があり、それからずっと離れると人家はなくなり、ときどき牧場や農場が姿を現す。あとは雑木の生い茂った平地で、沼が点々とある。いわゆるディープサウス。しかし葛にからまれた木がたまにあったり、葛の繁茂している場所があったりする。マイクさんによると、むきだしの赤土に移植するために日本から運んできたが、予想以上に繁殖して、アメリカでは始末に困っているという。

 地図が粗末で、道路の標識がわかりづらいせいもあって、道に迷う。おかげで、幹線からはずれた道を通ることになった。はずれた道といっても日本の国道くらいの幅のある二車線道路だ。途中、花で飾られたとてもきれいな墓地がいくつかあった。南部は日本と同じように祖先を大切にするとか。また、このあたりにはあちこちに教会があって、どれもきれいだ。

 やっとフィラデルフィアに着いて、消防署の人にたずねてみたら、だいぶはずれたところにあるという。みんなフィラデルフィアにあると思っているが、そうではないのだそうだ。そこで道順をきいて、リザベーションへ。チョクトー族のリザベーションで、メンバーは5、6千人。もとは南ミシシッピの3分の2、およびアラバマ地方にも住んでいたが、1801年から1830年にかけてのアメリカ政府との条約によって、土地を奪われていった。最初のものは Dancing Rabbit Creek 条約(ダンシング・ラビット・クリークは地名)で、これによると全員がオクラホマのほうへ移動させられることになっていたが、教育を受けたインディアンもいて、けっきょく、残りたい者は残ることになり、およそ5千人が残って、1万5千人がオクラホマへいった。170年も前のことなので、今はもう互いに交渉はない。1945年にリザベーションができるまでは、山の中に住んだり、小作人小屋に住んだりしていた。

 農業が主体だったが、最近では工業、製造業に従事する人が多い。また教育は、昔は Bureau of Indian Affairs(※インディアン局。アメリカ内務省内にある一部局)が管理していたが、今ではインディアンが管理するようになっている。またリザベーションというのは、連邦の一部ではあるが、州の一部ではない。したがって州の権力は介入できない。裁判にしても、殺人などの重犯罪は連邦裁判所がさばくが、軽犯罪はリザベーションのなかでさばかれる。
 チョクトーというのはスペイン語で、Flat Head を意味する Chata からきているという。チョクトーの子供たちは小学校にはいるまで、80%が英語を話すことができない。したがって、小学校では英語を教えるとともに、チョクトー語をアルファベットで書いたり読んだりすることを教えている。現在でも、96%の人たちがチョクトー語をしゃべることができる。アメリカにリザベーションは多いが、90%以上がその部族の言葉をしゃべれるというのは珍しく、ほかには5、6部族しかないのではないか。あとでリザベーションの売店にいってみると、チョクトー語の聖書、賛美歌、絵本などが置いてあったが、ほんの数点のみ。辞書と絵本を買って帰ることにする。それとサポテカ族の織物を。

 スティック・ボールという伝統的な競技がある。これは有史前から行われていたもので、はじめはサッカーのような球技だったが、16、7世紀くらいから棒を使うようになった。もともとはルールもなく、競技場の広さも無制限で、500人くらいでやっていたこともあったが、現在のルールでは、25人対25人で、フットボール場と同じ広さのなかで行われる。

 ワシを持ちこんできた人がいた。さすがにそばでみるワシは迫力がある。彼はダンサーだそうで、これで羽根の衣装を作るらしい。このイーグル・ダンスというのは、もとはチョクトーの踊りではなく、ほかの部族のものだったが、現在では取り入れているという。いいものは、ほかの部族のものであっても取り入れようという姿勢がみられる。

 なかなか楽しい話がきけてよかった。相手をしてくれたふたりも友好的だった。これもチョクトーが、白人とあまり衝突がなかったせいだろう、というのがふたりの説明。ほかのリザベーションがすべてこんな風ではないという。
 このあとフィラデルフィアのダウンタウンをみて(小さな街)、途中、ショッピング・モールで食事をして、インディアン・クラフトをひとつ買って、ホテルへ。朝9時半にでて、もどったのが8時半。さすがにマイクさんはタフである。いっこうに元気だ。

 


 

9月12日(土)

 朝、マイクさんから電話。10時の待ち合わせを11時にしてくれとのこと。それで、これを今、打っているところ。あとできいたら、翻訳の仕事、英訳をたのまれて、それが朝の5時までかかって、少し寝てから、空港まで持っていったとのこと。

インディアン・マウンド

 11時、出発。とりあえず一路、ナチェズへ。途中、またインディアン・マウンド(※埋葬地または要塞として築かれた塚)があった。またか、と思っていってみたら、これがでかい。なかなかのものである。が、観光客はなく、ナチェズからきた家族がマウンドのてっぺんで、ランチを食べていた。ちょっと話をして、すぐに退散する。ちょうど、でっかい車がマウンドの芝刈りをやっていた。すごい勢いで、どんどん、かなり急な斜面まで、刈っていく。

 南へいくにつれて、木にひげのようなものがついているのが、あちこちで目につくようになる。スパニッシュ・モスだ。ナチェズに着いたのは1時半くらい。ホテルのレストランで昼食を。ガンボと、コーンビーフのサンドイッチ。ガンボは、かなりスパイシーなごった煮。ブラウンシチューにメキシコ風のスパイスをほうりこんで、エビやカニやカキをいれる。ジャクソンでは町中のレストランが集まって、13日にこのガンボ大会をするそうだ。が、13日はアイオワに発つ予定。残念。マイクさんは子ウシのレバー・ソテーを注文。一口、二口食べて、つきかえす。まずい、という。メイドが勘定書きを書き直して持ってきた。レバー・ソテーの分が消えている。まずい場合は、金を払わなくていいらしい。マイクさんにたずねると、当たり前だという。しかし前にでてきた、つけあわせのサラダやパンは食べてしまったのに。ううむ。アメリカというのは大雑把な国である。マイクさんはメイドに4ドルほどチップをやっていた。これも面白い。

 

 南部の豪邸

 ホテルをでて、街をぶらぶら回りながら、写真を撮る。南部の豪邸、というやつがあちこちにある。ギリシア風の、『風と共に去りぬ』にでてくるようなやつだ。といっても、マイクさんによれば、南部の人間はマーガレット・ミッチェルなんて、馬鹿にしているらしい。ありゃ、アイルランド人ですからな、というわけだ。一度、ミッチェル女史が交通事故にあって亡くなった場所にいって、このへんですかとたずねたら、みんな知っているくせに、知らん顔をしていたという。ふうむ、面白い。

 ナチェズも、ジャクソンほどではないが、やはりさびれた感じは否めない。もともとはミシシッピ河の港町としてさかえたらしい。

 さて、いよいよミシシッピ河を渡って、ルイジアナ州へ。ミシシッピも綿花畑が多かったが、ここはさらに多い。見渡す限りの綿畑。綿花をひとつ、ふたつ摘んで、写真をとって。

綿花

 そして車は Winner’s Circle へ。競馬の場外馬券売り場。なんと、マイクさんは、ルイジアナのインフォメーション・サービスで、こいつがあることをききつけていたのだ。デルタ・ダウンズという競馬をやっている。なかは薄暗く、ちょうどゲームセンターのような感じで、4人がけのテーブルが50ほどあり、人は100人くらいはいっていて、奥にはバーがある。あちこちにテレビが置いてある。1メートル四方くらいでかいやつが2台、小型のが26台。馬券売り場が2カ所。これと同じようなスペースが反対側にもあり、そうするとテーブルの数は100くらいか。さっそくあいているテーブルにすわって、ビールを持ってきてもらい、マイクさんはボールペンを持って、計算をはじめる。割り出すのは速さと、格(賞金額の高いレースにどれくらいでているか、あるいは勝っているか)。4時半に着いて、ここをでたのが8時半。なんともよく、付き合ったものだ。マイクさんはあまりついてなくて、一時はぼくから75ドル借りていた。いままで、トータルで勝ってるんですかとたずねたら、いいや、という答え。みんな同じようなものなんだろう。

 当初おとずれる予定だったヴィックスバーグは当然、省略。ジャクソンに着いたのは10時ごろで、ショッピング・モールも閉まっていて、ガソリンスタンドの近くの中華にはいる。ここのソフトヌードルというのが失敗だった。のびきったうどんを肉と野菜といっしょにいためたようなやつがでてきた。それにしても、アメリカというのは一般に、味が塩からい。勘定をすませると、焼いた八つ橋に似たお菓子のなかにおみくじのはいっているものをくれた。いい友達が現れるだろうという内容だった。なかなか面白い趣向だ。ここの中華のおねえちゃんが、小柄で、とても愛想がよかった。どこからきたとたずねてきて、東京からだというと、そうかそうか、東京はどうだ、なんて話になった。やっぱり東洋人同士というのは、なんとなく親しみやすい。

 やっとのことでホテルにもどり、ビールを飲んで寝る。明日は午前5時半にチェックアウトして空港にいかなくてはいけない。

 


 

9月13日(日)

 眠い。が、なんとか起きて、空港へ。まだ暗い。飛行機のチェックインをすませて、レストランへ。マフィンとコーヒー。それから搭乗。最後尾の席で、マイクさんは窓際だが、窓がない。ぼくは真ん中。左隣にすわったのが、ぼくの3倍ほどありそうな太ったおじさん。肘かけが、丸太のような膝と、突き出てたれさがった腹にはさまれてしまって、ほとんどみえない。ファースト・クラスにすわってくれよな、といいたくなってしまった。気分的にすごく窮屈なうえに、気流が悪く、かなりゆれる。ナガオ君妹の旦那)が、飛行機はいやだといっていた気持ちが少しだけわかる。やっとのことで、途中の飛行場に着く。何人かが乗り換え。みーんな、でていったが、ぼくは絵を上の荷物入れに置いているので、ひとり残る。なんだか奇妙な気分だ。マイクさんは、絶対に席を変えてもらうんだといって、でていった。3、40分ほどして、乗客がのりこんできた。マイクさんの代わりに右隣にすわったのは、なんと右隣にすわったおじさんとほぼ同じ体重と体格の女性。まいった。あとでマイクさんに、それをいったら、”Oh, my god!”。

 途中、どこかで乗り換えて、やっと飛行機はアイオワシティに。
 世話係のトマスさんが迎えにきてくれている。とてもやさしい感じの人で、結構、面倒を見るのがすきそうなタイプだ。が、マイクさんは、早速、「ほっといてくれ、自分たちで好きにやるから」といいだした。ま、それもいいか。

 アイオワである。空港をでたらすぐに、だだっ広いトウモロコシ畑が広がっている。コーン・ベルトの一部。なるほど。さすがに、これほど広いトウモロコシ畑が次々に広がっていくのをみるのは、ちょっとした驚きだが、その驚きも、こう同じ調子で続くと、いいかげん飽きてくる。ただ、単調なだけだ。大雑把、単調、これがアメリカの田舎なのだろう。いってみれば、ニューヨークだって、かなり類型的な都市といえないこともない。どこといって、とりたてて変わっているわけではなく、ただ、極端なだけだ。類推不可能な不思議な都市というわけではない。マイクさんは、ここでもレンカーを借りる。

 とりあえず、アイオワシティに着く。が、これはちょっと日本では考えられない町だ。真ん中にアイオワ大学があって、それを中心に町が広がっているという、いわゆる大学町。筑波大学も発想としては同じなのかもしれないが、ここと比べると、はるかにお粗末だ。ここは大学としての機能を十分に果たしながら、かつ町としてのひとつのまとまりをみせている。その真ん中をアイオワ川が流れ、とても静かで、落ちついていて、若者が多く、インテリっぽい人があちこちにみられる。4万人以上もはいるバスケットボール競技場、6万人以上もはいるフットボール場、最高の音響のコンサート・ホール、美術館、医学部の付属病院(歯科も)、文学部、社会学部、商学部 etc。それらがひとつの町として機能しているのが、不思議といえば不思議だ。田舎の広大なトウモロコシ畑のど真ん中に、こんな町が忽然と姿を現す。面白い。

 町に着いて、アイオワ・ハウスという大学のホテルに荷物を放り込んで、早速めしを食いにいく。通りかかった若いカップルにきくと、キッチンという店がうまいというので、いってみると閉まっていた。しかたなく、ピザ・ハットで食事。トラヴィスを気取って『トラヴィス』(スーザン・ヒントン作、金原瑞人訳、原生林)参照)、シン・アンド・クリスプのプレーンのピザにサラダ。ピザがでかくて食べるのにかなり苦労するが、なんとかクリアした。ウェイトレスの女の子が学生らしいので、多めにチップを置いていきましょう、とマイクさん。なかなかいいことをいう。チップなんてのは、面倒なだけだと思っていたが、チップを置いていく楽しみというのもありそうだ。むかしのおひねりのようなものだ。

 7時から、町でいちばん大きな書店で、アルゼンチンからやってきた作家の朗読会があるというので、いってみる。ちゃんと前座まで用意してあって、この大学で詩を専攻している女の子が、自分の詩を朗読した。それからアルゼンチンの作家の短編の朗読。スペイン語で書いたものを、アイオワ大学の学生が訳したらしい。どんな話かはよくわからなかった。ま、しょうがない。
 ホテルにもどって、寝る。

 


 

9月14日(月)

 9時半に ジェイ=オンさんに会う。韓国の人で、Center for Asian and Pacific Studies(※アジア太平洋研究センター)の Director。去年までの社会学部長だ。もちろん、専門は社会学。ぼくが社会学部にいるので、こんなプログラムを組んだのだろう。見当はずれ、といいたいところだが、なかなか面白かった。

 社会学にも2派あって、社会学は科学であるという方向を強く支持する立場ともっとヒューマニスティックな要素をそれに加味しようという立場。しかし、今日では、その中間的な立場や、フェミニズム、エスニシズムなど様々な問題をかかえつつ、社会学は多岐にわたっていって、多種多様な方面に広がっていっている。彼の著作としては、Political Sociology 関係のものとして、”Participation and Social Equality” があり、これは京都大学の三宅一郎氏が訳しているらしい。

 また、日本というのはどうも権威主義的なところがあって、エリートはみんなオクスフォードやケンブリッジにいきたがるし、日本の女性の地位は、世界的、アジア的見地からいって、かなり低いのではないか、そんな話もでる。中国はいうまでもなく、韓国よりも低いはずだという。

 こちらはこちらで、南米のマジック・リアリズムからエスニックの流行についての文学談義をする。
“A Thrice-Told Tale” by Margery Wolf, Stanford Univ. Press が面白そう。
 このあと、案内役のベッツィーさんに車で町を案内してもらい、それから昼食。日本とアメリカの教育制度の話になり、公文式教育の例を紹介しながら、あれこれ。
“Japanese Educations Challenge” by Merry White が面白そう。

 2時に、リアンさんに会う。部族での名前は、Noanoli-Tubbee。チョクトー族の作家であり、活動家であるという。オクラホマに移ったほうの一員で、短編をいくつかと戯曲をひとつ書いている。チョクトーという部族は、Bone Pickers (※骨を拾う人々)ともいう。これは、人が死ぬと、死骸を4本の柱の台の上にさらして、鳥などによって骨になるまで置いておき、それを運んで、埋葬場所、つまりインディアン・マウンドにいくところからきているらしい。また、チョクトーという言葉は、チョクトー語で「人々」を意味するのであって、スペイン語の平たい頭ではないという。

 リアンさんによれば、ミシシッピのチョクトー・リザベーションでぼくに説明してくれたのは、連邦政府から派遣された人で、あまり信用はできないという。そもそもそのリザベーションの首長自体が、連邦政府寄りで、近くに核廃棄物の処理場を造ろうとしているうえに、リザベーションにカジノを設けようとしているらしい。チョクトーの部族ひとりあたりの平均年収が3500ドルくらいなのに、この首長は93000ドルももらっているし、5600人くらいのこのリザベーションには政府から400万ドルもの金がおりていて、そのうち150万ドルをこの首長の親族で取っており、いま連邦警察が取り調べの途中だという。
 なんでも、いろんな人の話をきいてみるものだ。

 去年、アメリカ・インディアン作家の集まりの第1回目が行われたという。レスリー・シルコウ、スコット・ママディをはじめ、500人の人を招待し、300人がきたそうだ。リアンさんはグループの人たちといっしょに、Watch List を作っている。これは、インディアン以外の作家が、インディアンやインディアンの歴史、生活についていいかげんな事を書いているものをリストアップしたものらしい。カナダでは、かなり厳しくやっているようだが、アメリカでは、検閲じみたことは禁止なので、そう強くはできないそうだ。

 このあと、クリス・オファットという作家に会いに、フィッツパトリックというパブにいく。このパブで作っているビールがあるというので、Wheat Beer という軽いビールをもらって飲む。なかなか喉ごしがいい。が、作家はこない。30分ほどして、引き上げ、お土産を持って、再びリアンさんのところへ。

 7時からディーラーズ・ショーという版画と写真の展示即売会へ。マイクさんは、少しみてからすぐ帰った。展示されているものは500ドルを越えるものが多く、ちょっと手がでない。が、ひとつだけ275ドルで、抜群にいいものがみつかった。「カーテン・コール」というタイトルで、女の子が肩に子ザルをのせて舞台に立っている版画だ。ずいぶん迷った末に、えいっとばかり、買ってしまう。

 そのまま帰って、絵はがきを何通か書いて、寝る。買った版画を何度かだしてみたが、いい買い物をした、とつくづく思う。だれがなんといおうと、これは抜群である。翻訳なんかやめて、画商になろうかと本気で思う。

 


 

9月15日(火)

 ダニエルさんに会う。彼は Translation Workshop の Director。この翻訳のワークショップというのは、大学院生が対象で、マスターの学位が取れる。ダニエルさんの話では、イギリスでは翻訳のワークショップでPHD(※博士号)をだしている大学もあるが、アメリカではマスターどまりだという。アイオワ大学のほかにも、コロンビア大学、ボストン大学、バーミントンのニューヨーク州立大学などにも大学院でこのコースを設けているところがあるらしい。アイオワ大学で学位をだすようになったのは、15年ほど前からだったが、大学でのワークショップはそれ以前から行われている。

 ダニエルさんは、ロシア語、フランス語からの翻訳の専門家で、もう30冊以上の翻訳をだしている。早速、授業のやり方をきいてみる。授業は2時間。学生は1週間前に課題を提出することになっており、授業ではその課題の問題点についてのディスカッションが中心。「いやあ、私は話題の進行役みたいなもんで、ほとんどは学生まかせ。翻訳の場合、どれが正解ということはありませんから、できるだけ多くの可能性を示したり、できるだけ多くのアプローチを教えたり、ま、そんなことしかできません」様々な言語からの英訳が提出される。最も多いのはスペイン語からだという。アジア系の言葉からの英訳を試みる学生は少なく、1年にひとりくらい。提出する課題は、原文をそのまま逐語訳したものと、それを訳し直したものの2種類。

 また、このワークショップでは面白い試みも行っている。アイオワ大学では毎年、9月から11月の3カ月にわたって、International Writing Program(※以下、IWP)を行っている。これはあとで詳しく書くが、世界中の著名な作家を招待して、互いの交流を深めるとともに、大学の文学の授業に貢献してもらおうというプログラムだ。翻訳のワークショップは、これと連携した活動も行っている。たとえば、スペイン語で小説や詩を書いている作家がいて、参加してくれることになると、スペイン語からの翻訳を学んでいる学生が、その作家といっしょになって、英語の翻訳を作っていくのだ。もちろん、いっしょに相談しているうちに、もとのテキストと違った部分がでてくることもある。なんともエキサイティングな試みだ。

 マスターの学位を取るためには、3、40ページの序文、および、作品の翻訳が必要。序文では、その作品の位置づけ、紹介、また翻訳する上での問題点などを詳しく論じることが必要。
 ダニエルさんに、「翻訳の世界」(※雑誌)を送ること。

 昼食は、町のインテリでもあり、International Visitor をもてなすのが趣味というカーン夫妻に御馳走になる。旦那さんのほうはすでに83歳。歩くのに杖がいる。マイクさんは逃げてしまった。昼食は町のメキシコ料理店で。この店をやっているのが、彼の大学院の教え子らしい。そのあと家によばれて、デザートをごちそうになり、あれこれみせてもらう。ふたりきりで話し相手もあまりいないのか、エジプトにいった話やインドでの話など、あれこれしてくれる。2時間ほどごいっしょして、ホテルにもどり、一服して、またアイオワ大学へ。

 IWPを担当しているクラークさんに会って、話をきく。この大学の文学部の方向づけは、25年くらい前にポール・アングルという詩人によって行われた。そして積極的に創作、翻訳などの文学活動を大学の学部の1コースとして確立した。Writing Workshop は小説家や詩人をめざす若者のために、そしてIWPは、すでに地位が保証された世界の作家のために開かれている。招待された作家には、1日50ドルと、部屋および、何カ所かを旅行するための費用、全部あわせておよそ1万ドルが与えられる。今年は25カ国から作家、詩人がきている。エストニア、アルバニア、カンボジア、韓国など。これもすごい! マイクさんが、いったいなんでアイオワにこんな大学があるんだと、ほかの州のアメリカ人が不思議がるといっていた。”Why in the middle of nowhere?”(※どうしてこんな内陸の何もないところで?)というわけだ。

 クラークさんの推薦としては、Bharati Mukherjee(この人の作品は遠藤晶子訳で出版されるらしい、いや、出版されたのかもしれない)。またシンシア・カドハタ(”The Floating World” というカズオ・イシグロのと似たタイトルの作品を書いている)

 クラークさんと入れ代わりに現れたのが、さっきのIWPでやってきたニュージーランドの若手の作家スティーヴァン・エルドレッド=グリッグ。ちょっとデイヴィッド・ボウイに似た好男子。これまで小説は3冊だしている。”Oracles and Miracles”、”The Siren Celia”、”The Shining City”。
 彼によると、現在ニュージーランドでは大きく、2つの文学的な流れがある。ひとつはマウイといった原住民のメンタリティや民話、神話を借りてきて小説にする作家たち。もうひとつは、ニュージーランドの右傾化に反対する、自然主義的な作家、つまり、左翼的な作家たち。いわゆるポスト・ポスト・モダンというわけだ。彼自身は、ドメスティックな小説が好きで、かなり細かい描写で家庭や人間を描いているという。好きな作家は、ジェーン・オースティンだという。なるほど。
 ニュージーランドの作家としては、Janet Frame あたりが面白いのではないかという。

 さて、このあとはジェイムズさんの創作のワークショップ。授業が始まる前に、ちょっとだけ話をする。いま注目している作家は、Charles Johnson、Gloria Naylor(来年、日本で翻訳がでる)、Ishmael Reed、Edware Johns とのこと。
 ワークショップは、ぼくが法政でやっているのとほとんど同じ形式で進む。学生は12人。うち女の子が2人。雰囲気はずいぶん違っていて、かなり真面目だ。みんなで作品を提出して、それを批評しあうという形式だ。

 夕食のあと、Open-Mike に参加。これは引退者たちが住んでいるしゃれたアパートの1階で行われる(このマンションには空きがあって、外国からの作家が何人かここの部屋で暮らしているらしい)朗読会で、これが第1回目。これから毎週開かれるという。みるからに韓国人のような人がいたので、「どちらからですか」とたずねたところ、「台湾です」という。そばにまるで日本人といった顔があったので、「どちらからですか」とたずねると、「韓国。韓国大学で教えてます」という詩人だった。そこへむこうから、いかにも日本のおばさんといった感じの眼鏡をかけた婦人がやってきて “From China?” とたずねられてしまった。ううむ、アジア人というのも、よくわからん。アメリカ人がまちがうのも無理はない。

 さて、この朗読会、最初はコールリッジ(※イギリスのロマン派の詩人。批評家)がトリニダッドにいったときに、そこの娘に恋をするという、歴史に題材をとった短編。次は夕方会った、ニュージーランドの作家が、”The Shining City” の一部を朗読。それからカンボジアの詩人が、カンボジア語で詩を朗読(英語の訳があらかじめ配られていた)そのあとで、別の人が短い詩を朗読。どれも、内容はよくわからなかったが、結構面白かった。

 


 

9月16日(水)

 先日会えなかった、クリス・オファットという作家に会うか、アマナにいくかの選択を迫られる。天気が良かったので、アマナというドイツ系の人たちの作っているコミュニティへいくことにする。2日間、ずっと人にばかり会ってきたので、のんびり田舎をドライブするのもいいだろう。

 と思っていってみたのだが、たいしたことはない。かなり商業化され、観光化されていて、売っているものも、ありきたりだ。アンティックの店で羽根のついたバッジをふたつ買う。19世紀終わりごろの3Dの眼鏡も売っていて、ちょっと気がひかれたが、高いので思い切ってやめる。しかし白黒の写真が飛びだしてみえるのは驚きだった。そのあと、ビールの醸造工場にいってその売店でビールを飲む。それから空港へ。

 途中、ミネアポリスで乗り換え。そのあとアイオワシティに。着いたのが11時半。1時半ごろに寝る。6時半にモーニングコール。7時半に出発だ。

 


 

9月17日(木)

 セイリッシュ・クートニ・カレッジへいく途中で
 8時前に出発して、およそ1時間ちょっとで、パブロという所に着く。西側一帯がセイリッシュとクートニのリザベーション。ここには、セイリッシュ・クートニ・カレッジがある。短期大学で、看護婦、歯科医助手などの養成、その他の施設がある。また放送設備もあり、図書館も充実している。ここの建物は生徒が建てたもので、平屋の褐色の建物がいくつもあちこちに散らばっている。なかなか面白い趣向だ。また、大学の真ん中にある、インディアンの彫刻(?)、いや、オブジェは、ポンコツのシボレーを材料にしたもの。

 構内を1周して、ここの Director であるテリオーさんに話をきく。ここの大学のことや、リザベーションのこと。

 このリザベーションの住人は3万人だが、そのうち2万5千人は白人。1910年から政治的なやりとりがあって、白人もリザベーションに住めるようになった(本来なら、これは契約違反なのだが)。また、彼がここの Director になってから、色々な紛争については法廷で争うようになった。たとえば、リザベーションで農業を営んでいる白人が灌漑用として水をひくことによって、インディアンの魚に被害がでる可能性がでてきたときにも、法廷に持ちこみ、インディアンの漁業権(魚の保護)が優先権を持っていることを確認した。

 1850年から1934年にかけては、Federal Agency(※連邦政府の機関)がこのリザベーション管理の権利を持っていて、インディアンからかなりの土地を奪っていった。そもそも1600年以前(イギリス人が最初にアメリカに定住した町、ジェイムズタウンができたのが1607年)には1100以上の部族があったが、現在連邦政府から認められているものは312に過ぎない。

セイリッシュ・クートニ・カレッジ

 以下も、テリオーさんの弁。
「私は、学生に歴史を丸飲みしてはいけないと教えている。むしろ歴史に挑戦しろといっている。たとえば、感謝祭のころになると、フェスティバルで踊ってくれないかという依頼がよくくるが、それは全て断っている。というのも、多くのアメリカ人は、この感謝祭は、プリマスにやってきたイギリス人がインディアンに多くの面で世話になったその感謝の祭りだと思っているが、どこを調べても、感謝祭について、そのような歴史的事実はない。あるのはただふたつだけだ。ひとつは1637年に、イギリス人がナラガンセット族と共謀して、ピーコット族700人を虐殺し、それをマサチューセッツ州の知事が評価し、感謝祭を設けたという事実。もうひとつはリンカンが、南北戦争に勝ったとき、11月の第3木曜日を感謝祭とした、という事実だ。これ以外に、感謝祭についての歴史的事実はない。

 歴史はしばしば捏造されるものである。たとえば第2次世界大戦のさなか1941年のこと、私はカリフォルニアのフレンチ・キャンプにあったヤマシタさんという日本人のトマト畑で働いていたが、パールハーバーのとき、投石事件があった。ヤマシタさんが、日本のスパイで、井戸に通信機を隠していたというニュースが流れたのだ。しかしそのような事実はなかった。

 また、インディアンのことになるが、このあいだモンタナ大学で80人ほどの学生を相手に講義をした。ほとんどが白人の中流以上の家庭の師弟で、とても優秀な学生ばかりだったが、インディアンについてはほとんどなにも知らない。まあ、それも無理はない。たとえば、ここにアメリカ史の本が2冊ある。両方あわせておよそ2300ページだが、両方あわせて、インディアンについての記述は10ページほどだ。とくに1880年以前のインディアンについてはほとんどなにも語られていない。アメリカの歴史のなかで、われわれはほとんど存在しなかったも同然なのだ。

 インディアンについてのイメージも、ほとんどが類型的なものばかりで、だいたいがNoble-Savege(※高貴な野蛮人)といったイメージだ。今、われわれは再教育の必要性を強く感じている。

 そしてまたインディアンの教育も重要なことはいうまでもない。現在、完全というわけではないが、かなりわれわれの思うような教育ができるようになってきた。次第に良い方向に進んでいるといっていいだろう。そして歴史の見方も変わってきている。また、インディアンの教育についても、これからが楽しみだ。たとえば、この大学の教師30人のうちインディアンは3人しかいない。だが、これからはもっと増えていくと思う。

 ほかのインディアンの大学(短大)についていえば、残念なことに21のうち、15くらいしか、思うような効果をあげていないのではないか。また、リザベーションについても、精力的に自分たちの伝統を守りつつ、現代を生きていくという積極的な姿勢を持っている部族は、およそ300のうち50部族(ナバホ、ウォームスプリングなど)くらいではないか。多くはなにもできないでいる。とくに北西部の海岸ぞいにある小さなリザベーションは生き残れないかもしれない。

 そういえば、こないだ『フォーブズ』という雑誌の記者がやってきて、ここのリザベーションの取材をしていったが、彼によれば、ここの産業はすべて失敗だという。利益率が低いといういうんだな。しかし私にいわせてもらえば、これは成功なのだ。べつに負け惜しみでいっているわけではない。われわれセイリッシュやクートニ族においては、産業がある程度の雇用を可能にし、そして赤字でなくやっていければ、それで十分なのだから。インディアンにはインディアンの基準がある」

 このあと、つい最近本をだしたデイヴィッドさんに会う。彼はモンタナ大学で森林学(Forestry)を学び、ここにやってきて原生林の保護のための運動に参加している。しかし運動は思うような成果をあげていない。現在モンタナ州の人口は80万人、原始林が600万エーカー残っている。このうち130万エーカーを原始林として残そうという意見にさえ反対がでていて、議会を通過しない。

 デイヴィッドさんのだした本(1991年11月刊)はクマについての文化人類学的なもので、来年仏訳がでる予定。全部で12章。はじめの10章はアメリカ・インディアンのクマについての神話、伝説を中心に扱っていて、11章はヨーロッパ、アジアのクマ、12章はユングのクマについての夢の分析に触れている。

 デイヴィッドさんの推薦本。
“The Spiritual Legacy of the American Indian” by Joseph Epes Brown

 午後、マーガレットさんに会う。”The Last Best Place, a Montana Anthology” という膨大なアンソロジーの編集にたずさわったひとり。とても温厚な感じの女性で、ゆっくり話してくれるのでよくききとれたし、そのうえ Sandhill Grane の絵のグリーティングカードをいただいた。
 まずこのアンソロジーについてきいてみる。これはモンタナ州の歴史、文化、文学、言語、哲学など7部門にわたる文章を集めたもので、8人の編集者が4年がかりでひろい集めたものらしい。”The Last Best Place” は、この種の本としては、50年ぶりにでたもので、次がいつでるかはまったく不明。

 マーガレットさんの興味について。大学院では18世紀の小説、デフォー、リチャードソン、フィールディングなどの作品における、女性の行動様式を研究。当時の小説は、婦女の行動規範となるべく書かれた一面もあり、そういった面を調べることによって、当時の女性観をさぐることができる。マーガレットさんはフェミニズム運動にも参加しており、アカデミックな立場から、活動に加わっている。彼女によれば、現在のように女性の書き手が増えてきたのは1960年代以降の傾向で、とくに1968年は記念すべき年だという。Feminism Manifestation という宣言がでたのもこの年だし、また On Sexual Policy がでたのもこの年である(ヘンリー・ミラーとの関連を調べること)。以後、それまではきこえてこなかった女性の声がきこえてくるようになり、出版社も女性によって書かれたものに興味をみせるようになる。エリカ・ジョングなどもその顕著な例。

 アメリカではフェミニズム運動が盛んだから、さぞ女性の地位はあがったのではないかとたずねたところ、とんでもないという答えが返ってきた。まだまだ女性と男性とでは賃金の差が大きく、大学でもそうだ。また良き主婦としての女性像が深く信仰されていて、それはブッシュ夫人をみればよくわかる。

 日本の最近の女子学生の場合、かなり保守的な傾向が強くなっているような印象を受けるのだが、アメリカではどうかときいてみたが、アメリカでもそのとおりだという。彼女によれば、1960年代終わりから、とくに1970年代以降のフェミニズムの運動が広がったことによって、離婚や家庭内不和が増えたことは事実で、その傾向は今でも続いているが、その被害をまともにこうむったのが当時の子供たち、そして今の子供たちである。そういった子供たちが、保守的になるのも無理はない。また、現在の学生たちがレーガン政権の時代に育ったこともその理由かもしれない。

 しかし現在のアメリカでは、男がひとりで家庭を維持していくのは不可能になってきていて、女性も働かざるをえない状況になってきているという。女性の地位向上は、不可避だろう。この15年間、外で女性が働く率がずいぶん高くなってきているそうだ。

 しかし女性の参政権についていえば、モンタナ州など、いわゆる辺鄙な州ほど早くそれを認めてきたという事実がある。田舎の州では女性といえども、かなりの労働を負担しなくてはならず、男性も女性の重要性を認めざるをえなかった。たとえばアメリカで最初の女性議員はモンタナ州からでたジャネット・ランキン(1880~1973)で、それもまだ女性に参政権がなかったときに当選している。つまりモンタナの男性たちが選んだのだ。モンタナはずいぶん保守的な地盤のように思えるが、そういうところからこういう女性議員が出たというのは、とても興味深い。そしてランキン女史は、第1次世界大戦、第2次世界大戦の2回とも、議会で、参戦反対の票をいれた唯一の議員である。現在、モンタナ大学の入口には、ランキン公園がある。

 


 

9月18日(金)

 ウィリアムさんに会う。彼は1年間、東洋大学で教えていたことがある。アメリカ文学が専門で、エスニック文学が専門ではないというので、現在のアメリカの文学状況、および批評について、とくに De-Constructionis (※文芸批評の方法のひとつ。脱構造主義)以降の話をきく。脱構造主義以降は、さまざまな方向からのアプローチが行われるようになってきている。まだ運動とはいえないものの、いくつかの有力な批評のスタイルが確立しつつあるらしい。

 エスニックについていえば、様々な立場からの見直しが行われているところで、たとえばこのミズーラにおいても、かつて300人の中国人と50人の日本人が住んでいた。そんなことは誰も知らなかったし、知ろうともしなかったが、そういった歴史を洗い直す試みが行われている。
 その他、エスニックに関する興味深い本をリストアップしてもらう。

 昼食を、デブラさんといっしょに、彼女はセイリッシュ・クートニのリザベーション出身で、セイリッシュの部族の一員。現在作家活動をする一方、ネイティヴ・アメリカンについての授業を持っている。昼食後、早速、大学の書店にいって、授業で使っている本やその他の本を紹介してもらい、買いこむ。彼女の作品が載っているアンソロジーをプレゼントしてもらった。

 昼食後、ジョエル次の年に、奥さんが中央大学の総合政策学部に教えにくることが決まっていた。次の年、同学部で英語を教えながら、芝居の翻訳でも活躍している黒田絵美子さんを交え、ジョエルたちと飲むことになる。不思議な縁である。ちなみに黒田さんは、大学院のときに3年間ぼくと同じ授業をとっていた)が迎えにきてくれる。彼の奥さん、リーさんが、来年から中央大学で教えることになり、彼もいっしょに非常勤で教えることになったという。心強い味方ができた。仲良くしておこう。

 このあとエイドリエン・リッチという女性の詩人による講演が2時間ほどあるので、それを聴く予定だったが、咳がひどいので、パスする。午後8時からの詩の朗読会もパス。もしかしたら、ジェイムズ・ウェルチがくるかもしれないらしいので、ぜひいきたかったのだが、あまり無理はしないほうがいいだろう。
 マイクさんからもらった薬を飲んで、ひたすら寝る。

 


 

9月19日(土)

 アルバカーキの近く
 咳もかなり楽になった。11時に車に乗って、本を送りに郵便局に。閉まっている。しかたないから5マイルくらい離れたショッピング・モールにいってみるが、郵便局の代理店はあるものの、海外便は扱ってないという。しかたないから、荷物をかかえたまま、空港へ。アルバカーキあたりから送ることにする。

 アルバカーキ到着。車を借りてそのままサンタフェに直行。Garrett’s Desert Inn というモーテルに。荷物を置いて、ひとりで夜の町にでる。どこも土産物屋ばかりだが、だいたいは5時か6時には閉まってしまう。ターキーのサンドイッチを買って、ホテルにもどる。ターキーの味はいいのだが、ちょっとしょっぱい。アメリカの食べ物はどうしてこうしょっぱいのだろう。

 


 

9月20日(日)

 サンタフェ
 今日はひとりでサンタフェの町をぶらぶら歩くことにする。マイクさんは、競馬。それにしてもこの町のほとんどは教会とホテルとギャラリーと観光客相手の店ばかりだ。土産物屋が数えきれないくらい並んでいる。が、日本の多くの観光地と違うのは、どれも質の高いものばかりを売っていること。織物、絨毯、インディアン・ジュエリー、どれも結構高い。また、回廊の軒下を借りて、インディアンたちがすわって、やはりインディアンの手作りのものを売っている。インディアン・ジュエリーの店ばかり回っているうちに、目が慣れてきて、少々凝ったトルコ石のネックレスなんかには驚かなくなる。最初は、でっかいトルコ石を連ねたネックレスにうなずいていたが、そのうちそれらが決して、ネックレスとしていいものではないことに気づく。だいたいネックレスというより、どこかの棚に飾っておくためのものだろう。やはり手頃な大きさ、長さというものがある。また、トルコ石で様々な動物を刻んだものを連ねたものもあって、ほう、すごいや、と感心はするのだが、どうみても、ネックレスとしてあまり洗練されてはいない。クマやシカや鳥の形のトルコ石を連ねただけで、まとまりが悪い。それぞれが小さいものだと、かわいいのかもしれない。しかし、いいものもいっぱいあって、日本で売っているものは、だいたいが安物であることがわかってきた。それにしても、こんなにたくさんのトルコ石が、いったいどこにあるのだろう。不思議だ。そのうちに、なくなってしまうのではないかと心配でもある。

 あちこちにあるギャラリーの数が、またすごい。しかし、すごい!と叫びたくなるような絵は少ない。多いのは印象派風の絵で、はっきりいって、つまらない。そのなかで異彩を放っていたのが、ヘイイーズの絵。ダリのキリンを連想させるような馬、それに乗った、カラスの騎手、手にもった槍。背景は深い青が基調。新鮮で、驚きに満ちた、シュールな絵だが、それでいて親しみを感じる。店のウィンドーに飾ってあった絵がいちばん気にいって、それに値段もまずまずだったので、どうしようかと迷う。次の日まで保留ということにしておこう。サンタフェの土産物屋 空き地で、10人ほどのアーティストがテントを張って、絵を展示していた。そのなかでひとり、気になるアーティストがいたので、大きい版画の値段をきてみる。150ドルだという。300ドルにしていたのだが、雨が降りそうだからという。すぐに買うことにする。
 それにしても気になるのはヘイイーズの絵だ。画廊のおじちゃんと少し話をする。どうやら白人だがリザベーションに住んでいるらしい。とりあえず絵の写真を撮らせてもらってホテルに帰る。買った版画を部屋に置いて、昼食にでようと思ったら、いきなりあたりが真っ暗になり、風が吹きはじめ、雷が鳴りだした。しかたないのでホテルの中華料理のレストランにいく。チキンの甘酢あんかけとワンタンをとる。青島ビールを飲んでいると、チキンがきた。チキンの衣は、もろチキンナゲット風で、いっしょにはいっているピーマンやニンジンは冷たい。甘酢のあんはなまぬるい。甘すぎて、とても食べてられない、といいながらも半分はこなす。なかなかワンタンがこない。ウェイトレスに再三、文句をいって、やっと持ってきてもらう。温めるのに時間がかかったとか。これもぬるい。スープはまずまずだが、なかのワンタンがひどくまずい。皮が粉っぽいうえに、中身がいやなにおいがする。こないだの中華といい、今度の中華といい、アメリカの中華がうまいといったのはだれだ。

 ものの30分ほどで雨があがり、空は真っ青に晴れあがった。ふたたび、町のなかへ。インディアン・アートのミュージアムをみたり、ギャラリーや店をのぞいたり。とにかく飽きない。あちこちで写真を撮りまくる。いろんな家の戸を撮ったり、土産物の並んでいるところを撮ったり、町の風景を撮ったり。とにかく、飽きない。あれよあれよというまにフィルムはなくなり、気がつくと5時。そろそろ店が閉まりだす。

 住宅地のほうに足をむける。また、これがすごい。ドービという赤っぽい土煉瓦で造った家が通りにそってならび、その間を木や花が彩っている。そろそろ日が沈みはじめ、あたりが赤く染まっていく。サンタフェ、アルバカーキの夕焼けが美しいという噂は本当らしい。ホテルの近くの店でピザを注文する。トッピングはガーリックとハム。スモールを注文したのだが、6切れのうち4切れでギブアップ。残りはホテルに持って帰る。

 


 

9月21日(月)

 9時ごろ、マイクさんの運転で、サンタクララ(守護聖人の名から)のプエブロ(スペイン語で「村」)にいく。テワ族の村だ。そこの観光局長(?)が、案内してくれた。インフォメーション・サービスにいって、まずいろんな話をきく。2週間ほど前に、日本からウルトラクイズの連中がやってきたらしい。そのときの企画書のコピーがあったので、みせてもらう。もちろん日本語。なんと「プエブロ族」と書いてある。まあ、こんなもんかもしれない。

 時々は日本人もくるようで、インフォメーション・サービスにいたら、神奈川県からきたというカップルに会った。

 村のなかにはいる。写真はOKということだったが、一応撮る前にはたずねることにする。まずはいったところに木の十字架がいくつか並んだ墓地があった(スペインの影響で95%がカトリックだが、インディアンの宗教も併存している)。粗末なものばかりだが、どれも花で飾られていて、印象的だ。南部の墓地を思い出す。写真はいいのかとたずねたら、これだけはだめだといわれた。やはりきいてみてよかった。教会の写真や家の写真を撮らせてもらう。集会場の写真も撮りたかったが、遠慮しておく。これは儀式や祭りに使われるもので、正式な儀式のときには女性ははいれないらしい。

 この村の政治組織は、かつては冬の政党と夏の政党があって、それぞれに首長がおり、1年の半分の政治を担当していたが、1930年ごろ、権力争いがおこって、冬の首長派と夏の首長派に村が分裂しかかった。そこで政府と相談のうえ、民主的な選挙を取り入れることになった。現在、村の政府には Govenor がおり、国務長官がおり、通訳がいる。通訳というのは、かつてテワ語とスペイン語と英語が共存していたために必要だったが、現在ではただつきあいで出席しているようなもの。選挙は1月1日、18歳以上の男性(?)によって選ばれる。リザベーションの名簿にはあるが、村の外にでている人のために不在者投票もある。今のところ冬の政党が3、夏の政党が1ある。議会および村の行政は、知事、副知事、国務長官、通訳、4つの政党からの代表それぞれふたりずつの12人によって行われている。

 父権が強く、父親が村の一員であれば、リザベーションのメンバーと認められるが、反対の場合は認められない。村の女性がナバホ族の男性と結婚して村の居住権を主張したことがあるが、このとき連邦最高裁判所は、村の伝統的な習慣に従うべきであるという判断を示した。

 17世紀以降、スペインのカトリックの迫害のため、インディアンの伝統的な宗教は一時、地下に潜伏した。またスペイン人はインディアンを奴隷として使おうとしたが、インディアンは奴隷になるよりはと、非暴力の抵抗をしたため、黒人の奴隷が輸入されることになる。1680年から1690年ごろにかけて暴動が起こり、教会は破壊され、スペイン人は一時、村からいないくなる。が、8年後、ふたたびニューメキシコに宗教使節がやってきて、インディアンとのあいだにある種の同意を得る。そして教会が再建され、現在では95%くらいがカトリックである。が、インディアン的な色合いがかなり濃い。たとえば、9時に教会でお祈りをすませると、インディアンたちは顔に絵の具を塗って、集会場(地下?)で踊りをおどる。このような宗教的な儀式には女性は参加できないし、それをみることもできない。ただお祭りなどの場合は別。トウモロコシの祭りのような時には女性もみることができる。また、儀式の集会場は、普通はだれも入っては行けないことになっているらしい。

 この村出身の作家はおそらくいないだろう。というのも、村の儀式や宗教的な伝統を文章や絵や写真で外に発表することは禁止されていて、そのタブーを破ると、死を招くとされているからだ。もっとも今世紀のはじめ、村の人たちが写真というものを知らなかったときに、白人たちがやってきて儀式などの写真を撮ったことがあり、かなりの量のものがスミソニアン(※博物館)におさめられているという。またほかの村では伝統を保存するために、儀式などをビデオや写真を利用しているところもあるらしいが、この村では行っていない。

 そんな話をききながら、村のあちこちを案内してもらう。ドービといわれる土煉瓦造りの赤い家がなんとも不思議だ。廃屋もいくつかあって、案内の人が昔住んでいたという、おばさんの家もそのひとつ。なかをみせてもらう。天井が低く、少し背をかがめないと頭がつかえてしまう。冬はずいぶん寒くなるらしく、暖炉も備えつけになっている。夏は涼しく(もっとも、このあたりでは湿気は少ないので、夏でも太陽があたりさえしなければ、涼しい)住み心地はとてもいいということだ。

 まだまだ村の入口のあたりだが、時間がない。午後は出版社に顔をだす予定だ。最後にインディアンの土産物屋にはいる。どれかひとつくらい、お土産にと思って、あれこれみてまわるが、値段が高い。とくに陶器が高い。掌に乗るくらいの丸い飾りが、150ドルだ。表面に描かれているデザインはすばらしいが、それにしても、高い。店のなかにいたインディアンの青年が、陶器の焼きかたを、写真をだしてきて説明してくれた。まずブロックのような四角い石かなにかを置き、その上に、四角いブリキの箱を置いて、なかに陶土で作ったものを並べて、(ふたをして?)下から火を燃やす。そのまま周りや上から火をあてて、とりだせば赤褐色の陶器になる。さらにおがくずか、もみがらのようなものをかぶせて、蒸し焼きにすると(つまり、酸素の少ない還元炎で焼くと)黒く焼きあがる。こうして焼いたものの表面を削ったり、こすったりして、飾りを刻みこんでいって仕上げる。

 思い切って、150ドルの丸い置き物を買う。ちゃんと証明書をつけてくれた。サンタクララのなにがしというインディアンが作ったという証明書だ。

 昼前、サンタクララをでて、サンタフェにもどる。ミズーラで会った、来年日本にやってくるという青年ジョエルから教えてもらったレストラン、Josei にいく。メキシコ料理の店だ。店の前には10人くらいベンチにすわって順番を待っている。テイクアウトで待っている人もいる。思ったよりも早くなかにいてもらえた。メキシコ料理の盛り合わせというやつを注文する。タコス、チーズ巻き、オクラのフライ、メキシカン・ライス、豆の煮たやつなんかが、どっさりのっかっていて、そのうえに刻んだレタスを散らしてある。うまいといえばうまいのかもしれないが、鈍い味で、とても最後までは食べられない。量も多いし。デザートのパイがうまいという話だが、胃の余裕がない。

 そのまま Red Crane という出版社へ。地域に焦点をしぼった出版社で、ニューメキシコの作家や詩人の作品、料理、美術、絵本といったものを幅広くだしている。

 ジミー・バーカーのエッセイ集をだしていることをきき、ジミー・バーカーについてたずねてみる。素晴らしいチカノの詩人で、アルバカーキ生まれ、アリゾナの刑務所の独房で本を読みだし、スペイン語と英語の両方を覚える。その後、New Direction(小出版社)から詩集をだし、評価を受ける。チカノの定義は人によっても違うが(一般には、メキシコ系アメリカ人)、メキシコ・インディアンの血をひく者というのが、編集長の意見。これまではチカノのインテリというと学究的な人が多かったが、バーカーは違う。

 この出版社は3年前に発足して、地域に焦点をしぼった出版社としてやってきた。とくにサウス・ウェスト(ユタ、コロラド、ニューメキシコ、アリゾナなど)を中心に。しかし市場は全国的、いや世界的なものをと考えている。年間に12冊くらいの出版。

 最近は出版社の合併、吸収による大型化が進み、かえって小出版社であることのメリットがでてきた。質が高く、かつ収入になる本の出版が可能になってきたし、新しい作家は小出版社からでることが多くなってきている。ここも来年は、文芸書を8冊くらいだす予定。今のところは赤字だが、来年くらいからは黒字になってほしいと思っている。また10月の日本でのブックフェアにも出展するらしい。

 Rocky Mountain Association という小出版社の作っている協会があって、100社くらいが参加している。(パンフレットを参照)

 今のアメリカは、社会的な実験室のようなもので、非常に混沌としている。たとえば、いま学校で30人くらいのクラスがあるとすると、その生徒たちの母語が20くらいあることもありうる。しかし一般に話されるべき言葉は英語ということになっている。現在、アメリカの小出版社は、のこりの19の言葉に発言、表現の場を与えている。つまり、ある意味で、安全弁の役割を果しているともいえるだろう。

 このあとサンタフェにもどって、例の画廊にいって、ヘイイーズに会えるかどうか画廊のおじさんにたずねにいく。なんと、このおじさんが、ヘイイーズの親父さんだった。すぐに電話をしてもらって、明日の10時に約束をとりつける。ヘイイーズの妹さんがいて、いろんな絵をみせてもらうが、昨日、眼をつけていた絵がすでに売れてしまっている。次にいいと思っていた絵も売約ずみという。どうしよう。

 ホテルにもどって、今までカードで払った金額を計算してみる。これにあとのホテル代をいれると、膨大な金額になる。

 


 

9月22日(火)

 10時前、ギャラリーにでむく。アイリーン・ヘイイーズはもうきて待っていてくれた。金髪の美人、だが、かなり野性的で、かみつかれそうな感じがして、けっこう、おっかない。が、話しているうちに、打ち解けてきて、なかなかいい雰囲気になる。マイクさんはそばでみてるだけで、ほとんどふたりで英語で話が進む。だいたい絵描きのしゃべることは、ほとんど同じといっていい。自分のなかにある Another Rearity を表現しているとか。ふむ、クリスも同じことをいっていた。

 画風にたがわず、シュールリアリズムの絵、とくにダリが好きだという。美術学校では、教授の気にいる絵を描かなかったので、嫌われたらしい。卒業後、伝統的な彫刻をしばらく続けるが、飽きてしまって、絵を描きはじめる。最初のころのものをみせてもらったが、かなり画風もスタイルも違う。また、最近描いている絵も、何種類かのスタイルで描いていて、かなり現代的な抽象画もあり、シカゴあたりではこのほうが人気があるということだった。何種類かの絵を同時に描くのは、精神的なバランスをとるのにいいからという。というよりも、同じ絵ばかりを描いていると、精神的に窮屈になるそうだ。

 インディアンや日本の着物などをモチーフにした絵が多いが、意識しているのかどうかたずねてみる。「ううん、なんとなく、かな」という答え。「たとえば、この絵の女の人は髪形はナバホ族の女の人のものだけど、着ているものは日本の着物でしょ。そしてこっちの男の人はアラブだし。あちこちのものを、あまり意識しないで、とりこんでいるみたい。だから、インディアンを描いているといわれても困るし、日本人を描いているといわれても困るしね」
「そういえば、あなたの絵をみたとき、フリッツ・ショルダーの絵をふと思い出したんだけど、ショルダーは好きですか」
「すごい画家ね。あの人はインディアンだけど、あの人の絵はもうインディアンだとかなんだとかというところをはるかに越えちゃってるでしょ。あの人は現代を代表するアーティストで、たまたまインディアンだったというべきでしょうね」

 ハイウォーターと同じ言葉がでてきた。が、彼女は本は読まないとのこと。
 写真を撮って、送ってくれというので、マイクさんに撮ってもらう。
 大きめの絵を1枚買って、ギャラリーをでる。Tシャツをもらう。

 さて、サンタフェをでて、アルバカーキのホテルへ。予定を組んでくれた女の人にあいさつをして、大急ぎで昼食をすませ、アナヤ教授の家へ。
 ドービでできた落ちついた家で、ポーチからの見晴らしがとてもいい。アナヤさんはおだやかなおじさんといった感じで、こっちがなにも読んでないというのに、少しも気を悪くせずに、あれこれ教えてくれて、そのうえ7冊ほど、著書をプレゼントしてくれた。チカノについての本の一覧も日本に送ってくれるという。

 1960年後半、チカノ(メキシコ系アメリカ人)運動が起こる。1965年のセザル・シャベス(カリフォルニアの労働党の代表者)らの運動が引き金となる。この政治的な運動が刺激となって文学運動へと広がっていく。マリオ・ガルシアの “Minds of South America” を参照。以後、デモやボイコット(クアーズ社のビールの不買運動など)がはじまり、またチカノ関係の出版物も増えていく。New Idea of Identity が生まれてくる。

 アナヤさんによれば、チカノとメスティソは同じものを指しているのだが、アメリカ人はチカノという言葉を使い、メキシコ人はメスティソという言葉を使うのだろうという。では、ガルシア・マルケス(※コロンビアの作家)はメスティソといっていいのかとたずねたところ、ノーという答えが返ってきた。「コロンビアとアメリカは社会構造が違う。実際、マルケスは自分のことをメスティソと呼んでいるが、私の意見では違う」

 またチカノという言葉は面白くて、これはスペイン語ではない。もともとはコルテス(※スペイン人。征服者)たちがメキシコにやってきて、そこの原住民をメシカス(メキシコの語源)と呼んだ。メシカス→メシカノ→チカノと変形してきた。以前は軽蔑的に使われていた(インディアンは人間ではない。チカノはそれ以下だ、などといわれてきた)が、最近では、自分たちからチカノという言葉を誇りをもって使うようになってきた。

 現在ではアメリカでも文学の多様性がうたわれるようになってきて、エスニックの作家たちも本を出版しやすくなってきたのではないかという質問に対して、ノーという答えが返ってきた。小出版社でしか出版できないのが現状だという。
「ノートンの編集者が、これからはエスニック作家がどんどんでてくるだろうし、自社からもだしていくつもりだ、これは一時的な流行ではなく、構造的な変化なのだからといっていましたが、いかがです?」

「じつは、最近でた『アルブルケルケ(アルバカーキ)』という本はノートンにも持ち込んだのだが、断られたんだ。それで小さな出版社からだしてもらった。『ニューズウィーク』に書評が載ったんだが、これは奇跡といってもいい。そもそも大きな書評にチカノの作家のものが取り上げられたのは、これがはじめてじゃないか」

 もっとあれこれ話していたかったけど、マイクさんがそわそわしているので、退出することにする。アナヤさんの教え子でスガ・カジロウという学生がいて、いまシアトルの大学院にいるらしい。チカノのことに詳しいらしく、あとで住所を送ってくれるという。ありがたい。アナヤさんに、礼状をだすことを忘れないように。

 


 

9月23日(水)

 ロサンゼルス到着。ホテルはリトルトーキョーにあるニュー・オータニ。ホテルのなかは日本人ばかりで、ちょっと奇妙な感じ。雰囲気もアメリカのほかのホテルとかなり違う。たとえばエレベーターに乗るとき、普通だとなかにいる人にほほえむか、あいさつをするものだと思っていたが、ここでは違う。みんなこわい顔をしていて、乗ってくるときも顔をそむけて乗ってくる。アメリカ人からみると、あまりいい気分ではないだろう。ま、これも国民性の違いかな。

 さて、夕食だが、マイクさんは、そばを食べにいこうという。もうすぐ日本に帰るぼくとしては、こんなところでまずいそばを食べさせられるのは本意でないので、なんとか違うところへとほのめかしてみるのだが、なかなかうまいという言葉にのせられて、ホテルのわきにあるうどんとそばの店にはいってみる。一応、無難なところでざるそばときつね寿司を注文したところ、きつねが売り切れ。しかたなく天ざるにする。やっぱり、予想通りまずい。天ぷらの衣が、もろチキンナゲットの衣だし、そばがぶよぶよして気持ち悪いうえに、つゆが甘い。日本ではこんなにまずいそばは、食べたくても食べられないだろう。やっぱり、こんなものか、と納得する。ま、ビールと天ざるで10ドル。そう高くなかったので、これも納得することにしよう。そばの量も日本の大盛りくらいは十分あったし。しかし、ニュー・オータニの隣の店なら、もうちょっとましなものをだせよな、といいたくなってしまった。

 


 

9月24日(木)

 10時ごろに、ユナイティッド航空のオフィスにいって、出発の確認をすませ、その足でビルトモア・ホテルにある International Visitors Council へ。Program Officer のナパーさんにあいさつを。小柄でとてもかわいい。ヴェトナム人だろう。

 行きはバスで。25セント。帰りはブロードウェイを歩いて帰る。歩いているのはほとんどヒスパニックの人たちばかり。白人はたぶん観光客だろうとのこと。ううむ、すごい。ロスとはこんなところなのだ。

 12時にロサンゼルス・タイムズの記者たちと昼食。黒人ふたり、日系ひとり、白人ひとり、という構成。ボスのアンドリアさんは用事ができてこられなくなって、あいさつだけ。昼食は中華ということになった。はじめてまともな中華らしい中華だったが、甘いうえに、ぬるい。この程度の中華なら、日本ならどこでも食べられる。飯を食べながら、ロスの暴動について話したり、日本のことをしゃべったり、ロスのことをきいたり。こちらのほしい情報はちっとも得られなかったが、まあ日米友好の一環としてはいいかもしれない。

 チカノの若い詩人やアーティストに会えるとのこと。7時に Cafe Tropical で待ち合わせ。だが、だれもこない。やっと25分くらいして、セッシューという若い詩人がやってきた。お父さんが画家で、こんな名前をつけたのだという。あれこれカフェで話しているうちに、ひとり、ふたりと仲間がやってくる。詩人、映像作家など多種多様。そのうちやっと招待してくれた本人のエイリクがやってくる。ラテン系はこれだから困る。日本ではまず考えられない。まともに7時前にいったこちらが非常識だったのかもしれないが。

 しかし、話はなかなか面白かった。それにしてもこんなに詩人があちこちにたくさんいて、いいんだろうか、ふと不思議になる。日本では考えられない。それもあちこちに、たまり場があって。とにかく、こういった雰囲気の場所がいたるところにあるというのが、信じられない。

 ここでもチカノという言葉についてたずねてみる。チカノという言葉は政治的な意味あいが強く、1960年以降表だって使われるようになった。白人からの差別に対して、自分たちをチカノと呼び、抵抗、反抗を試みた。これに対し、ヒスパニックという言葉は、1979年あたりから政府が使いだした言葉で、保守的なにおいが強く、自分たちは自分たちのことをヒスパニックとは呼びたくない。
 またメスティソとラティノとは同じ言葉で、ラテン・アメリカの血をひいている人々のことである。

 さて、ここのラティノたち、つまりロスやサンフランシスコを根城に活動している詩人たちのあいだでは、パフォーマンスとしての詩が注目されており、詩集はださず、CDやテープ、ヴィデオなどで自分の詩を表現する人たちが増えている。これはロスに特徴的な現象で、もしかしたら、ハリウッドの影響かもしれない。

 また、注目している詩人、作家としては Paul Bowles、Michael Dorris、Louise Erhdrich、といった名前がでてきた。

 


 

9月25日(金)

 ロスのチャイナタウン

 10時に、Japanese American Cultural and Community Center(※日米文化会館)へいって、カツミさんに会う。日系の2世で、日米文化会館の秘書室長で、図書館長でもある。アメリカにきてはじめて、日本語でインタビューできる。うれしい。

 アジア系アメリカ人の雑誌、”Amerasia Journal” (UCLA Asian American Studies Center 刊)の存在を教えてもらう。現在、日系の作家として Karen Tei Yamashita、Cynthia Kadohata、Hisae Yamamoto といった作家がいる。また中国系ではエイミー・タンのほか、Frank Chin なんかが面白いかもしれないとのこと。

 現在アメリカでは、韓国からの移民が増えており、ロスだけで20万人といれている。ロサンゼルス市の人口の40%はメキシコ系、30%は黒人、10から12%がアジア系といわれており、白人は少数民族である。

 またロスでは地域の人種の割合がどんどん変わっており、日本人の多かったところに黒人がはいりこんできて、日本人がほかに移っていったことも多い。盗難、暴力事件など、黒人とのあいだのトラブルが結構あったらしい。だがラテン系とは共存できたという。ラテン系は日本人をほっといてくれたんです、というのがカツミさんの言葉。

 ここでまたチカノ、ラティノ、ヒスパニック、メスティソといった言葉についてたずねてみる。カツミさんの語感でいうと、チカノというのは、むかし日系の人たちが自分たちを卑下して uddhahead と呼んでいたのに近い感じだという。つまりもともとはメキシコ系アメリカ人を軽蔑的な気持ちをもって呼ぶときの言葉で、チカノと呼ばれるのを嫌うメキシコ系の人も多い。もっとも、チカノという言葉を逆に誇りをもって使う傾向もでてきて、そのひとつのあらわれがチカノ運動であったり、チカノ文学だったりする。ラティノという言葉もメキシコ系アメリカ人で一般的な呼称ではないか、とのこと。

 ヒスパニックというのはスペイン語を話す国からやってきた人々のことで、スペイン人、アルゼンチン人、チリ人、ペルー人を指す。メキシコ系アメリカ人は含まない。

 メスティソというのはメキシコ・インディアンとスペイン人との混血のこと。
 と、とてもわかりやすい説明をきき、納得。したものの、ほかの人はまた違ったことをいうのかもしれない。

 また、このリトルトーキョーの歴史と、このセンターについてたずねてみる。
このあたりは100年にわたって、日本人が住んでいた。1884年の人口統計のとき、ここに8、9人の日本人が働いていたことがわかっている。そして再開発に際して、まずリトルトーキョー・タワーというアパートを建てて、老人を中心に収容できるような施設を造った。それとともに、日本のことをアメリカに人たちに広く知ってもらうために文化センターを造った。「アメリカ人が、どんなに日本のことを知らないかを知ったら、驚いてしまいますよ」というのがカツミさんの言葉。またアメリカ人といっても、日系の3世、4世の人たちにも知ってほしいということもあった。とくに3世、4世になると、日本人以外の人と結婚する人がほとんどで、それにつれて、日本のことはさらに忘れられてしまう傾向にある。しかし、アメリカ人になりたかった1世、2世とは違って、3世、4世は日本のものでもよいものがあれば躊躇することなく取り入れようという姿勢がある。このセンターでは、歌舞伎、狂言などの伝統的なものばかりでなく、転形劇場など新しい劇団も日本から呼んで、アメリカに紹介している。

 日本のことをアメリカに知ってほしいと思っているのだが、残念なことに英語に訳されたものが少ない。なんとかならないものだろうか。

 

ヴェニス海岸

 

 1時半、Beyond Baroque Literary Arts Center(※以下、ビヨンド・バロック)という書店にいくことになっていたが、予定よりも早く着いたので、ヴェニス海岸まで足をのばす。とてもきれいな海岸で、砂は白く、水はすんでいて、人の数もそう多くなく、カモメが何羽も飛んでいるし、理想的にみえたが、水はかなり冷たいらしい。時間があれば、ひと泳ぎしたかったところ。残念。しかし潮風が快かった。

 さて、ビヨンド・バロックのベンジャミンさんが迎えてくれた。ここでは詩の朗読や芝居の上演を行う一方、多文化的な文学のワークショップのオーガナイズも行っていて、なかには書店もある。この書店には、エスニック文学に関する本がかなり並んでいて、早速、カレン・ヤマシタやジミー・バーカーの本を買う。その他、ベンジャミンさんの勧めてくれた本はそのまま、買うことにした。300ドルを越えてしまった。結構、面白そうな本があった。楽しみ。
あまり勧められると、1000ドルを越えるかもしれないので、適当に切り上げる。

 4時、Sun & Moon Press に寄る。ダグラスさんが社長、というか、ほとんどひとりでやっている出版社。シリアスな文学しかださないという硬派の出版社で、小説が半分、詩が半分、そして戯曲が少しという割合で出版を行っている。

 

 

 この日記は、ここでいきなり終わってしまう。なぜかはわからない。これをつけるために持って行った、オアシス・ポケット(あ、そうそう、書き忘れたが、この原稿はすべて、アメリカに持参した、いまはなきオアシス・ポケットで打ったもの!)が故障したか、あるいはそろそろ疲れてしまったか。たぶん後者だろう。このあと、ビヨンド・バロックで買った本などを郵便局から送って、帰りの準備をして……というふうにして、成田にもどってきたような気がする。アメリカ国内8カ所を回っての取材。とてもおもしろかった……が、さすがに最後は疲れていたと思う。いまもう一度やらないかといわれたら、即座に断るだろう。5カ所くらいならだいじょうぶかもしれないが。

 さて、こうしてアメリカを回った成果のひとつが、ルドルフォ・アナヤの『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』(草思社)である。アナヤさんからいただいたサイン本を使って翻訳した。また、アイオワでお会いしたリアン・ハウさんには、国際先住民年に日本に講演にきていただいた。その他、このときに買いこんだ本はいろんな面で役に立ってくれた。

 それから10年、このときにお世話になった方々にお礼の意味をこめて、このHPを立ち上げることにした。というのも、このHPのメインは、未訳の本の要約である。おそらく近いうちに100冊を超えると思う。アメリカに限らず、イギリス、オーストラリア、インドなど、英語圏のいい作品でまだ訳されていないものを紹介していく。これは、主として出版社にむけたもので、これがきっかけで出版の運びになるといいなと思う。日本と英米豪印などとの文化交流の助けになればと願っている。

 そしてもうひとつ、このHPをたちあげた目的は、これを通じて、英語圏の小出版社との情報交換をはかることである。もしこのHPが広く認知され、日本での翻訳出版に多少なりとも貢献していることが伝われば、日本にいては通常ほとんど触れることのできないむこうの小出版社の情報も入ってくると思う。

 来年からの金原の新しい目標は、小出版社から出ている本をひとつひとつ吟味していって、いい作品を掘り出すことである。

 また、最後になったが、この日記に細かく手を入れ、注を入れてくださった田中亜希子さんに心からの感謝を!

2003年9月1日

 

 copyright © Mizuhito Kanehara

 last updated 2003/12/30