翻訳 番外編
1986年 『特別な人』・ユージン・オニール作・(法政大学出版局)・共訳・111p SPECIAL by Eugene O’Neill
1987年 『世界の中の児童文学と現実』(ぬぷん児童図書出版)のうち「レオン・ガーフィールドの講演と分科会」32p
書評、評論、その他
1988年 朝日新聞「ヤングアダルト招待席」(書評)を隔週で担当(~1991)
1991年 朝日新聞「話題の本」(書評)を毎月担当(~1992)
1991年 岩波書店発行月刊誌「よむ」(評論・エッセイ)を隔月で担当(~1992)
1992年 朝日新聞「ブックバンド」(書評)を毎月担当(~1993)
1993年 朝日新聞「ヤングアダルト招待席」(書評)を担当(~1993)
1993年 朝日新聞「文庫、新書紹介欄」を担当(~1994)
その他、「図書新聞」「週間読書人」共同通信社の書評などを不定期に担当。
2003年以降、「読売新聞」の〈Bookナビ〉、「流行通信」の〈今月の言葉〉などを執筆。
2018年現在、共同通信の「ブックマイスター」、YAコーナーを担当。
マイノリティ文学の魅力について
(1991年、アメリカ広報・文化交流庁からインターナショナル・ヴィジターとして「アメリカのエスニック文化」の調査のために派遣されるときに提出した覚え書き)
おそらく現在、マジョリティとみなされる民族が直面している問題は、その閉塞性と排他的傾向をいかに克服するかという点にある。
たとえば、その端的な例が音楽だろう。中世以来、リズム・メロディ・ハーモニーの三要素の微妙なバランスを極限にまで追求していった西洋クラシック音楽は、現代にいたって、メシアン、ジョン・ケージ、トオル・タケミツといった現代作曲家によって、徹底的に解体されていく運命をたどるが、いっぽう、黒人たちは独自のメンタリティを西洋の楽器で表現することでジャズを作り上げ、さらにラテン系の人々はレゲエ、サルサといった音楽を主張しはじめる。そういったマイノリティの人々による、「音楽」という概念の切り崩しはエネルギッシュで、目を見張るものがある。いや、それは音楽に限らない。美術、文学もまさに同じような状態にある。そして、そこでゆさぶられ、切り崩されていくのはマジョリティの人々の感性であり観念である。あるいはそのリアリティといってもいいかもしれない。自分たちがこれまで絶対と思いこんでいた価値観がゆすぶられ、切り崩されていくことの快感といってもいい。かつてマジョリティの人々にとって、その価値観やリアリティが揺さぶられることは不快であった。しかし現在、それは快感になろうとしている。なぜなら、マジョリティといわれる人々が大きな壁に突きあたってることを意識のなかで、あるいは意識の底で感じていて、どこかにその脱出口をさがそうとしているからだ。
人間はひとつの体系のなかではいくらもがいても、その体系のなかでの思考しかできない。もしひとつの体系が危機的な状態にあって、今にも解体しそうなとき、それを救いうるのは別の体系との衝突しかありえない。別の体系、別の発想、別の価値観、別のリアリティと衝突することによって、自らの体系を活性化することができる。
過去において、いわゆるマジョリティと呼ばれる文明、あるいは民族は、異なった文明を切り捨てることによって、異なった文明を搾取することによって繁栄してきた。しかしそのマジョリティの文明が危殆に瀕した現在、もしその文明が生き残ることができるとすれば、それはあらゆる異なった文明と正面きってぶつかりあうことによってではないだろうか。その意味で、西洋音楽はあらゆる文明、あらゆる民族の音楽を、ワールド・ミュージックとして受け入れることによって、見事にその危機を切り抜けようとしている。また美術でも、ピカソを引き合いにだす必要もなく、同じことがいえる。
しかし残念なことに文学はいまだその段階まで到達していない。ラテン・アメリカの作家たちの書いたものが「マジック・リアリズム」の文学として世界に広く受け入れられたのは、確かに喜ぶべき現象だが、それ以上に広がりそうな気配はない。だがこのところ、アメリカにおいてマイノリティの人々のエネルギッシュな文学活動が行われているという情報ははいってきている。
もし日本に、アメリカのマイノリティの人々の文学を紹介、翻訳することができれば、それはとりもなおさず、日本の人々に対する大きな衝撃となり、日本の文学者にも衝撃を与えるだろうし、それと同時に、新しいアメリカ(さらに素晴らしいアメリカ)の発見にもつながるのではないだろうか。