管理者:金原瑞人

書名 Stripes of the Sidestep Wolf(タスマニアン・タイガーの縞)
著者名 Sonya Hartnett(ソーニャ・ハートネット)
出版社 Viking
発行年 1999年
頁数 191p
対象年齢 ヤングアダルト

【概要】 
 舞台はオーストラリアの田舎町。休火山のふもとで豊かな自然に恵まれてはいるが、発展からとりのこされた退屈な町でもある。主人公の青年サッチェルは23歳。精神的に病んでいる父と、夜勤の看護婦をしながら家計を支える母との三人暮らし。親友のリーロイは都会に出ていくが、サッチェルは両親のことが気にかかるのと、知らない町に移り住む不安とで、閉塞感を感じつつもこの町をでる気にはなれず、大工見習いをしながら日銭を稼いでいる。
 物語は、サッチェルの心の動きや日常生活を淡々と描きながら、ところどころ場面を切り替えて、山に棲むタスマニアン・タイガーのようすを短く語っている。タスマニアン・タイガーは入植者によって絶滅に追いやられたと思われていた動物で、物語のなかでは、サッチェルが唯一の目撃者であり、最後のシーンでサッチェルに町を出ていく勇気を与える存在になる。

【あらすじ】
 ある朝、森で薪にする木を切っていたサッチェルは、体に縞のある、猫に似た姿の犬をみかける。迷い犬ではないだろうかと気になりつつも、見慣れない犬なので、そのままにして帰ってくる。
 父のウィリアムは以前ガソリンスタンドを経営して家族を養っていたが、サッチェルが十五歳になる前のある日店を閉め、「神様がすべてを与えてくださるから」というと、ぴたりと働くのをやめてしまった。以後、何かというとこの言葉を口にし、紙に書いて壁のあちこちに貼ったりするので、人々のからかいのネタにもなってしまう。たまに近所の家の修繕などをたのまれると快く引き受けるが、お金は絶対に受け取らない。「神様が与えてくださる」のだから、金を稼ぐのは罪だと考えている。修繕してもらった家は、代金をこっそりサッチェルに渡してくれる。
 母は、より報酬のいい夜勤を選んで、看護婦をしているが体力的にはきつく、あつかっている薬のせいで、手は家事もままならないほどにひび割れている。しかし狂信的な夫は、働く妻を神の教えに反する不信心者となじる。
 母は、こんなひどい状態の家に息子を置いておくのは酷だと感じており、サッチェルにはことあるごとに家を出て都会にいくことを勧める。サッチェルの大工としての腕前を評価してくれている親方も、彼の立場を案じていて、こんなところにいて自分をだめにしてはいけないと諭す。義兄が人手を求めているから、遠い海辺の町だがいってみたらどうだと熱心に勧める。
 父の言動にうんざりしているサッチェルは、父の死を願ったり、母とふたりで家を出ることを考えたりするが、父が自分を愛してくれていることもまた事実なのを思い起こして、両親を置いていく気にはなれない。未知の世界に飛び込む不安も大きく、何ひとつ行動をおこさないまま日々をすごしている。
 サッチェルは、たまたま店で出会ったチェルシー(リーロイの妹)に、森でみかけた犬のことを話す。チェルシーは、それは絶滅したはずのタスマニアン・タイガーかもしれないという。スクールバスのドライバーをしているチェルシーは、人付き合いが苦手で、容姿は冴えず、二十一歳になる今までずっとへまばかりしているので、かたつむりのように引っ込み思案になっているが、この犬の話にはなぜか積極的で図書館で詳しい情報を集めて、サッチェルに山へタスマニアン・タイガーをみに連れていって欲しいと頼む。
 チェルシーによると、この犬のような動物がタイガーと名付けられたのは、その足跡がトラに似ていたのと、体に縞模様があったためらしい。他にもハイエナ、有袋オオカミ、縞オオカミ、シマウマ・ポッサムなどいろんな呼び方をされていたことがわかる。サッチェルが、どうしてそんなに熱心なんだいとたずねると、こんな返事がかえってくる。「入植したハンターたちによって絶滅に追いやられたと思っていた動物が生き残っていたとしたら、それはひとつの希望でしょ。世界も捨てたものじゃないって思えるわ。わたしたちの犯した過ちに対する『許し』になるような気がするの」
 チェルシーはサッチェルの父に負い目を感じていることがあった。昔、サッチェルの父はスクールバスのドライバーをしていたが、チェルシーのせいでその職を失う羽目になったからだ。おまけに今は自分がその職についていることで、チェルシーはさらに苦い思いでいる。
 山でタスマニアン・タイガーが現れるのを待っているとき、チェルシーはその存在を証明するために罠をしかけて捕獲しようといいだす。そうすれば動物をみるために人が押し寄せ、死にかけている町を救うことになり、お金ももうかるからというのを聞いて、サッチェルは非難めいた言葉で反対する。チェルシーはまた余計なこといって友だちを怒らせてしまったと落ち込む。
 ある朝サッチェルは、モウクを残して車ででかける。エンジンのかかりが悪かったが、なんとか走り出し、山のふもとまできたころ、うしろからモウクが追いかけてきているのに気づく。あきらめて、車に乗せてやろうとしたが、必死のスピード走ってきたモウクの勢いと、サッチェルがちょっとふざけたのが運悪く重なり、モウクを轢いてしまう。
 あわてて獣医に連れていこうとするが、調子の悪かったエンジンは完全にいかれてしまう。あたりには助けを求める人家もない。そこへチェルシーのスクールバスが通りかかる。わけを話し、バスを貸してくれと頼むサッチェルに、チェルシーは職を失いたくないと一旦は断るが、モウクを見捨てることもできず、バスはサッチェルに乗っ取られたことにして、キーを渡す。バスからおりたチェルシーは、家に向かって歩きながら、幸せな気分を味わっている自分に気づく。
 サッチェルはバスをとばして、獣医のところにいく。モウクは手術をすれば助かるだろうが治療費が二千ドルはかかるといわれる。払えない場合は安楽死しかないといわれ、サッチェルは、数ヶ月うちに金を払うから、なおしてやってくれとたのむ。
 モウクを助けるために、サッチェルは大工の親方が世話しようといってくれた仕事に就く決心をする。
 家に帰ると、修繕代を内緒で受け取っていたことが父にばれ、裏切り者呼ばわりされる。母はサッチェルの肩をもち、これまでわたしたち一家が生きてこれたのは、神様が与えてくださったからじゃないのよ、食費や衣料費や散髪代を払ったのは、神様じゃないのよと叫ぶ。父が母に向かっていくのをみて、サッチェルはとっさに父をなぐりつける。しかし母は、父をなぐったサッチェルをしかりとばし、出ていきなさいとどなる。 
 外にでたサッチェルは、ひさしぶりに山にのぼり、自然のなかで爽快な気分を味わう。頂から下をみおろすと、自分の住んでいる町が小さく屈従的にみえる。気持ちがおちついてくると、知らない町で働くことに不安をおぼえつつも、町を出る決心がかたまっていく気がする。
 サッチェルは、母と父のことを神に祈る。そして、町を出ることに対して自分の心が逡巡することからどうか逃れさせて下さい、出口をみつけさせてくださいと祈る。
 ふと息づかいを感じ、目をむけると、あの縞のある動物、タスマニアン・タイガーの親子がいた。絶滅を逃れた、出口をみつけた動物だ。その姿を目にしたあと、サッチェルは生き生きとした感じになり、不安も霧消し、おもわず笑みを浮かべて歓喜の叫びをあげる。そして神のような存在がこの気持ちを与えてくれたのだから、父の考えも間違ってなかったのだと思う。

【感想】
 全体に重い雰囲気につつまれてはいるけれど、静かな優しさを感じさせる作品だと思う。
「旧道沿いのこの町はさびれてしまった。道が不要になったように、ここに住んでいる人までが不要になったかのようだ。」という一文に表されるように、田舎町のよどんだような暮らし、そして所々に差し挟まれる美しい自然の描写。
 それから自然保護。タスマニアン・タイガーのことだけでなく、大工の親方の口を通して語られる、迫害したアボリジニのためにカルチャーセンターを建築したり乱伐した在来種の木を今になってあわてて保存しようとする白人たちの愚かな行動の批判。
 家族への愛が同時にしがらみにもなって家をでることができず、さらに未知の世界への不安も手伝って町をでることができないでいるサッチェルの思い切りの悪さが、いかにも現実的だ。最後に町をでる決心をするのさえ、自分の意志によるものではないというあたりに、物語としての面白さや盛り上がりには欠けるものの、厳しい現実を感じさせる。
 ある意味、『ギルバート・グレイプ』や『豚の死なない日』に似ているかもしれない。しかしこのふたつの作品には、主人公が「乗り越えなければならないものを乗り越えた」というカタルシスがあるが、この本の場合そのインパクトがとても弱く、読者によっては不満をおぼえるかもしれない。だが、それこそこの本の良さなのだろう。


last updated 2003/8/22