管理者:金原瑞人
Tough Stuff (1999)
By Kirsty Murray ,Allen & Unwin
[著者紹介]カースティ・マレー。オーストラリア出身。10代をカナダで過ごし、その後世界中を旅する。森林警備員、モデル、教師などいくつもの職業を経験し、最後に作家に落ち着く。本書は3作目。メルボルンで夫と6人の子供と暮らす。
はじめに
僕の名前はミロ。古代ギリシャのオリンピックのヒーローで、レスリングで何度も優勝したミローンという人からとった名前なんだ。僕みたいなひょろひょろした子がヒーローの名前に恥じないように生きるってしんどいなあって思ってたけど、そのうちたくさんのヒーローのことを知るようになって、大柄なマッチョっていうのはマンガの世界だけで、現実では色々な人がヒーローなんだってわかったんだ。もちろん子供もふくめてね。
歴史に出てくるのは大人ばかりだけど、そんな大人だって子供のときはあったんだ。だからって、大人になったら有名人になるなんて考える必要ないんだ。だって生まれつきすごい子や、すごいことをやってのけた普通の子がいっぱいいるんだから。
僕はほかの子が切手やマンガや武器なんかを集めるみたいに、ぶらぶら歩き回って話を集めるのが好きだ。おとぎ話が好きな連中もいるけど、僕は実話専門さ。それもタフなやつ。僕の頭にはたくさんの話がつまっている。そこでほんの一部を紹介しよう。みんな実話だぜ。タフな現実を子供たちがどう生きたかが描かれてる。
目次
第一章 人命救助をした子供たち
第二章 天才といわれた子供たち
第三章 野生の子供たち
第四章 スポーツ・芸能のスーパースター
第五章 束縛をといた子供たち
第六章 体制に抵抗する子供たち
第七章 王様になった子供たち
第八章 戦争を生き延びた子供たち
第一章 人命救助をした子供たち
人の命を救った子はどの本でもヒーローさ。だけど勇気があったからといって、ビビらなかったわけじゃない。普通の子がなんかすごいことをやってのけちゃっただけなんだ。
〈ビリーと雄牛〉
9歳になるビリーはオーストラリアのビクトリア州の農場で両親と暮らしていた。1994年春ビリーは父さんと一緒に子牛と雄牛を別々の囲いに追い立てる仕事をしていた。突然父さんの悲鳴がした。駆けつけてみると父さんが雄牛に襲われていた。ビリーは棒で雄牛を叩き、父さんの体から雄牛をどけ、やっとのことで囲いの中に追いこんだ。これからがビリーの大活躍だった。父さんは足をやられていて動くことができなかったので、ビリーは車から携帯電話と毛布とコートを持ってきて、まず母さんに電話して救急車を呼んでもらい、次に父さんに毛布をかけて体を温めた。学校で「事故にあうとショックで体温が低下する」と教わったのを思い出したのだ。30分後に母さんと救急車が到着した。後で新聞記者から「どうしてこんなことができたの」とたずねられ、「父さんを愛してるから」と答えながら、大人はなんてばかなことをきくんだろう、わかりきったことなのにと思った。
〈あたしにもたれて〉
カリーンはグラント・ティーントン山脈の西にあるアイダホのヴィクターに住んでいた。9歳だったけど馬の扱いには慣れていて、父さんとよく遠乗りにいった。事件が起きたのは空気がまだ冷たくて山には雪が残っている5月末のことだった。父さんはちょっと神経質な3歳の雌馬に乗り、カリーンはポニーに乗って、家から6キロほど離れた高い尾根まで遠乗りにいった。ふたりはひと休みして景色を楽しんでいた。父さんが馬の鞍に入れた飲み物を取りにいってしばらくすると悲鳴がした。振り向くと父さんが倒れていた。馬のひずめで顔の右上がえぐられ、穴があいて脳みそがみえていた。ちょうど右目のあたりだ。カリーンは気分が悪くなったが、応急処置の仕方を思い出し、呼吸をチェックしてから雪でそっと血を拭き取った。それから父さんのウエストに手を回して体を支え、もう片方の手でポニーの手綱を持ち、意識を失いそうな父さんを励まし、ゆっくりと下山していった。
5時間かかってやっと山の麓へ出た。カリーンは父さんを木の幹に寄りかからせ、ポニーに乗って助けを呼びにいった。父さんは救急車ですぐに病院に運ばれた。頭蓋骨と顔の骨は折れ、右目は摘出しなければならなかったけど、脳に損傷はなく、8月には退院できた。みんなから勇気をたたえられると、カリーンは「勇気があるとか、ないとかの問題じゃないの。ただ父さんを死なせるわけにいかないって必死だったの」と答えた。
〈危機一髪〉
15歳のジョーはカリフォルニアのマーセド市の鉄道線路沿いに住んでいた。1995年夏の夕暮れのこと。ポーチでくつろいでいると、線路をはさんだ向かい側に住んでいる3歳になるジョシュと赤ん坊のジェニーが庭から抜け出して線路で遊んでいるのが目に入った。そのとき8時25分の電車の警笛がきこえた。ジョーは猛スピードで走り出し、4車線の道路を突っ切って線路へ駆け上った。まずジョシュを線路からどかし、ジェニーを腕に抱えて体をふせた。列車が通り過ぎるとき、帽子が吹き飛んで背中に突風を感じた。
電車を止めて運転手と車掌が現場に降りてきたときには、ジョーはジェニーを抱っこし、ジョシュと手をつないで子供たちの家に向かって歩いていた。
ジョーは、勇気ある行動をした人に贈られるカーネギー・メダルを受賞した。
〈賢い赤ちゃんニコラ〉
2歳半のニコラはママとふたりで家にいた。お兄ちゃんたちは学校や幼稚園にいっていない。ニコラは歌を歌っていた。「さあかけるのよ、電話番号〇〇〇」。それはママがいつもお兄ちゃんたちに教えている電話の歌だった。そのときキッチンで大きな音がした。いってみるとママが床に倒れている。何度呼んでもママは起きない。助けを呼ばないと。どうすればいいのかはわかってる。大きな椅子を電話の所まで引っ張ってきて、椅子にのぼり歌の通りに電話をかけた。「ママが起きないの」というと、女の人がニコラの住所をきいた。普通の赤ん坊なら答えられなかっただろうけど、ニコラは電話番号までいえた。
すぐに救急車がきてママとニコラを病院へ運んだ。ママは骨折した肩の痛み止めを飲んでアレルギー反応を起こしていたのだ。ニコラのおかげでママは重態にならずに済んだ。
〈命を救った5秒間〉
1983年の新学期の朝。ステファンは新しい学校の制服を着て、オールトラリアのボローニア駅で市内行の電車を待っていた。すると数メートル先にいた男の人が気を失ってホームから線路に落ちてしまった。市内行の電車はどんどんホームに近づいてくる。100メートルも離れていない。5秒で助け出さないと間に合わない。ステファンは線路に飛び降り、男の人の腕を引っ張ったがびくともしない。そこで男の人の体をホームの壁の方に転がし、自分の体でおおった。急ブレーキがかかり電車が止まった。駅はパニック状態だった。駅長が線路に降りていくと、男の人の上に少年がおおいかぶさっていた。ホームと車輪の間は3、40センチしかなかった。ステファンは駅長を見上げてにっこり笑い、「靴を取ってくれませんか。 学校に遅れそうなんです」といって、次の電車で学校へ向かった。
第二章 天才といわれた子供たち
天才だったら人生楽勝と思うかもしれないけど、頭が良すぎると普通の生活ができなくてけっこう辛いんだ。天才だって子供に変わりないし、フリークなんかじゃないのに。
〈ジョージ・ビダー〉
ジョージ・ビダーは1806年にイギリスのデヴォンシアで生まれた。家が貧しくて学校へはいけなかったが、6歳のときに兄さんが数の数え方を教えてくれた。ジョージはいつもおはじきの入った袋を持ち歩き、計算して遊んでいた。やがてかじ屋で走り使いとして働くようになった。ある日のこと農夫とかじ屋が料金のことでもめていた。計算があわないのだ。するとジョージが「2ポンド5シリング6ペンスですよ」と正解をいった。農夫が別に計算問題をいくつか出してジョージを試してみたが、どれも合っていた。
やがてジョージの計算力が評判になり、10歳のときにケンブリッジ大学に招待され、数学者たちの前で計算力を試された。ジョージはどんな問題も答えることができた。まるで人間コンピューターのようだった。やがて彼は金持ちの援助で学校へ行けるようになり、16歳のときにエディンバラ大学で数学と土木工学を学び、その後土木技師として成功した。
〈天才ビリーの苦悩〉
ウィリアム・シディスSidisは1898年にニューヨークで生まれた。ビリーが6ヶ月のときに両親がアルファベットの積み木セットを与えたところ、1歳の誕生日を迎えるまでにアルファベットが書けるようになり、1歳半までにニューヨークタイムズが読めるようになっていた。6歳になり学校に通い始めると、1年生から3年生になるのに3日、中学を卒業するのに6ヶ月しかかからなかった。さすがに高校入学は8歳になるまで待ったが、授業中に黒板で問題を解くときは椅子に乗らなければならなかった。
やがてマスコミがビリーのことが取り上げるようになったが、好意的なものより、奇形児扱いする記事や、頭の良すぎる子供はどこかおかしな所があるといった記事が多かった。
ハーヴァード大学に入学できたのは11歳になってからだった。17歳でテキサスにあるライス大学の数学教師になったが、生徒は彼よりも年上なのでうまくいかなかった。彼は身だしなみに無頓着で、動作がぎこちなく、女性に対して臆病だったので、学生たちは彼の真似をしてからかった。8ヶ月後には辞職してボストンに戻り法律の勉強を始めた。
やがて社会運動に参加し1919年のメーデーで逮捕された。それが原因で両親とは2年ほど疎遠になったが、彼は自分らしい生き方を探し求めていた。その後ビリーは彼のことを理解してくれる友人に囲まれながら、ボストンの近くで静かに平凡に暮らした。
〈チェスの女王〉
ジュディット・ポルガーJudit Polgarは1977年にハンガリーで三人姉妹の末っ子として生まれた。両親は天才は作られるものだと信じていたので、三人の娘を学校へ通わせずに家で勉強を教えた。やがて長女のジュザZsuzsaがチェスに興味を持ち、5歳と7歳下の妹たちも夢中になった。特に末っ子のジュディットにはチェスの才能があった。
1984年に三人姉妹はチェスの世界トーナメントに参加した。14歳、9歳、7歳だった。その年ジュザは世界一の女性プレーヤーになったが、1989年には13歳のジュディットが姉を負かして世界一になり現在に至っている。1991年にジュディットとジュザはグランドマスターの資格を得た。15歳のジュディットは史上最年少だった。1993年には前世界チャンピョンのスパスキーを負かし大評判になった。彼女は将来まちがいなく世界チャンピョンになるだろうといわれている。チェスの世界では三十代がピークだからだ。
第三章 野生の子供たち
〈ヴィクトール〉
ある日痩せた体にぼろをまとった裸同然の少年が村の畑で捕まった。12歳くらいだった。警察の手で孤児院に送られたが、少年は出された白いパンを吐き出し、ベッドで寝ることや洋服を着ることを嫌がった。多くの人が少年はオオカミと暮らしていたのではないかと考えたが、彼は木の実や野菜を好んで食べた。そのうちパリの新聞が「アヴェロンの野蛮人」と題して少年のことを記事にした。するとある司祭が少年の面倒をみたいと申し出てロデーズに連れていった。少年はだんだん肉付きもよくなり、落ち着きも出てきた。
やがて司祭は少年をパリにある聾唖者のための有名な教育施設に連れていった。若き医師イターItardが少年を指導し、ゲラン夫人が看護婦として雇われ少年の身の回りの世話をすることになった。ある日イターは少年が「オー」という音に嬉しそうに反応するのに気づき、彼を「ヴィクトール」と呼ぶことにした。少年は自分の名前を呼ばれるたびに微笑むようになった。これでヴィクトールの耳は聞こえることがわかった。
イターはヴィクトールに1日何時間も読み書き会話を教えたが、ヴィクトールは5年たっても言葉を100個しか覚えることができず、読み書きもほとんどできなかった。そしてひとりでいるのが好きだった。イターはゲラン夫人といるときだけ幸せそうなヴィクトールをみて、彼のことは夫人に任せるのが一番だと判断した。フランス政府はゲラン夫人に年金を支給し、夫人はヴィクトールが1828年に四〇歳で亡くなるまで世話をした。
〈オオカミ少女〉
1920年シン牧師はゴダムリの村人から、幽霊をやっつけて村を救ってくれと頼まれた。村人に案内されて幽霊の住処にいってみると、オオカミの母親と子供が2匹、それに人間の子供がふたりいた。牧師は奥さんと一緒に孤児院を開いていたので、ふたりを家に連れて帰った。シン夫人はふたりの女の子にカマラとアマラと名づけた。カマラは八歳、アマラはまだ1歳半ぐらいだった。ふたりは動物のように四つ脚で歩き、食べる前にまず匂いをかぎ、洋服を着るのを嫌がった。夜になると2匹の小犬のように丸くなって寝た。
シン牧師のもとで暮らすようになってから1年たった頃、ふたりは病気にかかり、妹のアマラは死んでしまった。アマラの死後カマラはシン夫人や動物に愛情を示すようになり、次第に孤児院の生活にも慣れていき、直立して歩けるようになった。けれど2年経っても単語を2つしか覚えられず、どこから来たのか説明することができなかった。
カマラも孤児院に来てから九年目に病死してしまった。
現代ならヴィクトールのような子が森から出てきたら、医者は「自閉症」と診断したと思うよ。ヴィクトールやカマラは知的障害があったから家族に捨てられたんじゃないかな。
〈キャスパー・ハウザー〉
1828年のニュルンベルク。ある日15歳ぐらいの少年が警察に保護された。少年は身長140センチ、青い瞳に茶色の巻き毛の魅力的な顔立ちをしていたが、洋服がちぐはぐで、ポケットには「K」と刺繍されたハンカチと砂金の入った封筒が入っていた。警官は身元を証明するようなものがまったくないこの少年にキャスパー・ハウザーと名づけた。
キャスパーは言葉を知らないのでうまく話すことができなかったが、11歳になる看守の息子ジュリアスと仲良くなり話し方を教えてもらうと、たちまち上手になった。
数ヶ月後にキャスパーはダウマー教授のもとで暮らすことになり、読み書きを教わった。次第に彼は自分の過去を語れるようになったが、それはとても奇妙な話で彼自身も夢か現実か判断できなかった。彼は小さな穴蔵に閉じ込められていたが、ある日男がやってきてキャスパーを穴蔵から出して、ニュルンベルクに置き去りにしたというのだ。
ニュルンベルクに来てから1年半後、キャスパーは家の外で黒服の男に襲われた。その時は一命を取りとめたが、2年後の1833年には出生の秘密を教えると何者かに呼び出され殺されてしまった。まだ21歳だった。彼はバーデン大公の王子で赤ん坊のときに王位をねらう親戚の手で誘拐されたのだと信じられていたが、真相は謎に包まれたままだ。
第四章 スポーツ・芸能のスーパースター
有名になるのっていいなあ、ファンクラブを持つのってかっこいいなあって思ってたけど、有名な子供たちの話を集めていくうちに気が変わった。僕、あんなに働けないもの。
〈ユーディ・メニューイン〉
ユーディーがバイオリンのとりこになったのは、3歳のときに家族と一緒にルイス・パーシンガーの演奏をききにいってからだ。4歳の誕生日におもちゃのバイオリンをもらったが、「このバイオリンは歌わないよ」といって泣き出してしまった。数ヶ月後に祖母から本物のバイオリンが贈られ、パーシンガーの指導を受けられるようになった。
ユーディは7歳のときにサンフランシスコでデビューし、1927年11歳のときにカーネギーホールで演奏して大成功をおさめ、天才少年といわれた。その後父親は仕事をやめて彼のマネージャーとなり、アメリカ国内やヨーロッパの演奏旅行についていった。
やがてユーディは大人になり2度結婚して、4人の子供の父親になった。彼はバイオリンだけでなく様々なことに関心を抱き、ジャズやインド音楽を学び、本を執筆し、平和運動や人権問題に積極的に関わっていった。1963年にはロンドンに音楽学校を設立し、65年にはナイトの称号を得た。1999年3月12日に82歳で亡くなった。
〈カルグーリーのアイリーン・ジョイス〉
アイリーンは7歳のとき、初めてピアノというものを見た。父さんが金を掘り当てて金持ちになったら買ってもらいましょうと母さんはいった。1919年ふたりはタスマニアからメルボルンを通って父親のいるウェスターンオーストラリア州の金鉱の町をめざしていた。
2年後にアイリーンは修道院付属学校に通うことになった。お金持ちの子は修道尼からピアノを習っていたが、アイリーンの家にそんな余裕はなかった。母さんはアイリーンを近くのパブに連れていき、調律されていないピアノで弾き方を教えてくれた。その日からアイリーンはひんやりした暗いパブにピアノを弾きにいくようになった。どうしてもピアノを習いたかったので、カルグーリーの通りでハーモニカを吹いてお金をため、修道尼のところへ行った。修道尼はアイリーンのピアノの上手さに驚いてしまった。
12歳になると奨学金をもらってパースにあるカトリックの学校にいくようになった。そこで有名なピアニスト、パーシー・グレンジャーの目にとまり、15歳のときにドイツのライプツィヒ音楽院に留学し、18歳でデビューした。その後は世界中を演奏旅行し、映画音楽のサウンドトラック制作に参加して活躍した。1950年にはアイリーンをモデルにした映画が作られた。1962年に演奏活動から引退した。
〈シャーリー・テンプル〉
メニューインがカーネギーホールで大成功を収めていた頃、シャーリー・テンプルという名の5歳になるえくぼのかわいいい巻き毛の女の子が映画関係者によってロサンゼルスのダンス教室で「発見された」。1930年代にシャーリーは子供が大人の役をする「ベビーバーレスク」と呼ばれる映画に数多く出演し、またたく間に世界的な映画スターになった。
シャーリーは演じることが大好きで、とてもエネルギッシュだった。学校へ行く時間はなかったが、専属の家庭教師をつけて撮影の合間に勉強した。6歳から14歳の間に24本の映画に出演し、恐慌に苦しむアメリカや世界中の人々を元気づけた。
シャーリーは20代のときに映画界から引退し、その後結婚して3人の子の母となった。後に政治に参加するようになり、下院議員になった。
〈シェーン・グールド〉
シェーンは1956年オーストラリアのシドニーで生まれた。小さいときから泳ぐのが大好きだった。13歳のときに自分の水泳の才能を自覚し、すべてを断念して競泳に打ち込んだ。早朝トレーニング、ダイエット、練習メニューの消化。やがて努力は報われ、1971年から72年のあいだに女子自由形の世界新記録を7つ打ち立て、1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを3つ、銀メダルを1つ、銅メダルを1つ獲得した。
1973年17歳のときに競泳の世界から引退することを発表した。「泳ぐのが楽しくなくなったから」というのが理由だった。やがて19歳のときにニール・イネスと結婚し、ウェスターンオーストラリアで農場を始め、4人の子供をもうけた。現在はコンサルタントとして働き、引退したスポーツ選手が普通の生活に戻る手助けをしている。
〈絵への情熱アレクサンドラ・ネキータNechita〉
アレクサンドラは1985年にルーマニアに生まれたが、1歳のときに両親がアメリカに移住し、ロサンゼルスで暮らすようになった。2歳のときにクレヨンを買ってもらってから、絵を描くのが何よりも好きになり、5歳で水彩を、7歳で油彩とアクリルを使って何時間も絵を描いた。8歳のときに両親は彼女を絵画教室に入れたが、ユニークな才能を持っているから人に習わずに自由に才能を伸ばしていったほうがいいといわれた。
ある日地元の図書館で絵の展示会を開いたところ、すぐに50ドルで売れた。その後画商の目に留まり、1994年に初めて個展が開かれた。このときアレキサンドラはまだ8歳だった。11歳までに自分の絵で500万ドルを稼ぎ出したが、彼女が絵を描くのはお金のためではなく、ただ描きたいから、描かずにいられないからだった。
第五章 束縛をといた供たち
スーパースターはほんとによく働くけど、それはやりたいからやっているんで、その見返りも大きい。でも子供が働く場合はほとんどが、生活のためや親の借金のためなんだ。
〈辛い工場の生活〉
1799年イギリスのランカシア。7歳のロバートとメアリーは、救貧院で暮らしていた。ある日、地元の綿紡績工場主が救貧院にいる80人の7歳になる子供たちを馬車に乗せて工場へ連れていった。工場の暮らしはひどいものだった。食べ物は薄い粥と苦い黒パン、ベッドもふたりでひとつだった。仕事は再利用するために床に落ちている綿くずを拾い集めることだった。腹ばいになって回転している機械の下にもぐって拾うので、かなり危険な仕事だった。これを1日15時間以上もさせられた。工場では男女は別々なので、ロバートとメアリーは手を振って合図するのがせいぜいだった。ある日メアリーはエプロンが機械に挟まれ、体も一緒にひっぱられ事故死してしまった。10歳にもなっていなかった。
ロバートは1813年に年季奉公があけ、4年後には工場を去って自分で紡績事業を始めた。けれど工場での過酷な労働と生活のせいで、背は低く、足は不自由で、手はねじれていた。やがて結婚して三人の子の父親となり、懸命に働いて子供たちに高い教育を授けた。
1832年にロバートが新聞に語った児童労働の実態は社会に衝撃を与え、改善を求める運動が起こった。1870年頃にはイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアで義務教育が導入され、何百万もの子供たちが恐ろしい工場で働かなくてすむようになった。
君たちはこんな話は遠い昔のことで今はもうないと思ってるだろう。でもそれは事実を知らないだけさ。国連の調査によれば、5歳から14歳までの子供がアジアでは1憶5300万人、アフリカでは8000万人、南米では1750万人働いているんだ。
〈闘士イクバル〉
1992年パキスタン。10歳になるイクバルは、母親の借金のかたにカーペット工場で働かされていた。契約では1日12時間の週6日労働のはずだったが、実際は20時間の週7日労働だった。ある日イクバルは友人と工場を抜け出して、債務奴隷労働者解放戦線(BLLF)のカーン議長の講演をききに行った。カーン議長は瞳を輝かせて聞き入っているイクバルに気づき、壇上で自分のことを話してみないかと声をかけた。イクバルはカーペット工場で働かされている子供たちの実態を話し、拍手喝采を受けた。
その後イクバルは工場を止め、12歳のときにラホールにあるBLLFのフリースクールに通い始めた。彼はBLLFの大会でスピーチを頼まれることが多くなり、人権問題の熱烈なスピーカーとして知られるようになった。やがて国際的にも有名になり、様々な国の人権擁護団体から招待されるようになった。1994年にはスウェーデンに一ヶ月滞在し、その足でアメリカに渡りボストン近郊の中学校で講演をした。
その講演をきいたのが、アマンダ、ジェン、エイミーたちブロード・ミードー中学の生徒たちだった。ある日彼らはイクバルが射殺されたことを新聞で知って驚いた。翌日は休日だったがクラスメートが学校に集まり、イクバルのために何かできることはないかと話しあった。彼らはアメリカ中の12歳の中学生に手紙やEメールを送り、ひとり12ドルの寄付を呼びかけた。イクバルの享年を忘れないために12という数字を選んだのだ。一年後に彼らは10万ドルを集め、世界中のNGOの中からパキスタンの組織を選び出し、このお金を元にして学校や教育基金の運営を委託した。その後もアマンダたちは毎週金曜日に集まり、「イクバルの学校」について話しあった。アマンダはイクバルが夢みたように将来は弁護士になって人権擁護のために闘っていきたいと思っている。
〈クレイグ・キールバーガー〉
トロントに住む12歳のクレイグ・キールバーガーは、朝食をとりながら新聞を広げていた。イクバル少年の写真と射殺という文字が目に入った。クレイグはその記事を読んで驚いた。児童労働なんて過去の出来事で、少なくとも100年前になくなったと思っていたからだ。それから彼は児童労働に関するあらゆる文献を読み、学校でも話題にするようになった。友人と一緒に「フリー・ザ・チルドレン」という組織を作って寄付を募った。
数ヶ月後に「児童労働根絶国際プログラム(IPEC)」からクレイグのグループに、アジアの児童労働を視察してみないかという話がきた。クレイグは両親を説き伏せて、ネパール、インド、パキスタン、タイ、バングラディッシュを巡る7週間の視察旅行に出発した。各地でクレイグは悲惨な状態に置かれた子供たちに会った。金属工場で働く重度の火傷の少女。火薬工場で働く傷口をリンで焼かれた少年。注射器を選別するリサイクル工場の少女は、針が散乱する床で裸足のまま働かされていた。
クレイグはイクバルと同じように人を説得するのがうまかった。同時期にアジアを訪問中だったカナダの首相と会ったときには、IPECへ70万ドルの寄付を取りつけた。「フリー・ザ・チルドレン」の活動は世界中に広がり、数10万ドルの寄付を集めることができた。クレイグは児童の権利を擁護する国際的なスピーカーとなり、ワシントン、ジュネーブ、ブラジル、スウェーデンとどこにでも講演に出かけていく。
第六章 体制に抵抗する子供たち
自分がおかしいと思ったことを押しつけられたとき、大人や権力のある人たちに対して「ノー」っていうのは勇気がいることだよね。
〈ルビーとアーチー〉
ルビーはおばあさんや兄弟と一緒にサウスオーストラリアで暮らしていた。ある日のこと、ルビーたちは警官立ち会いのもとでおばあさんから引き離されて、子供の家に送られてしまった。これは、子供たちを両親から引き離してアボリジニの伝統を忘れさせ、白人の子と同じように育てようという国の政策で、10万人近い子供が両親や親戚から引き離された。けれどルビーはなんといわれようと、おばあさんとの生活やアボリジニの風習を忘れないようにし、13歳のときに子供の家を脱走してアデレードで路上生活するようになった。10代の終わりにやはり両親から引き離されて育ったアーチーと出会い、結婚して2児の母となった。ルビーは12人の子の里親になり、ホームレスの子供の相談相手をしながら、講演してアボリジニへの不当な政策を一般の人々に訴えた。やがてルビーとアーチーはシンガーソングライターとして知られるようになり、歌を通してさらに活動を広げた。
〈子供十字軍〉
1212年のフランス。12歳になる羊飼いのステファンは神の啓示を受け、「ヨーロッパ中の神を愛する子供よ。私とともに神の栄光を求めよ。大人は聖地回復の戦いに失敗した。今こそ私たち子供が立ち上がるときだ」と子供十字軍の結成を呼びかけた。彼の言葉は村から村へと伝わっていき、やがてたくさんの子供たちが彼の呼びかけにこたえ、家族を捨ててフランス中から集まってきた。なかには十字軍の遠征で父親を亡くした子供もいた。
一方ドイツでもケルンに住むニコラウスという12歳になる少年が神の啓示を受けたといって、2万人の子供を引き連れてドイツから雪のアルプスを越えてイタリアに向かった。
ステファンの一行はマルセーユに向かった。ほとんどが12歳前後の子供で、炎天下で脱水症状を起こして死んだ者、両親に連れ戻された者、人さらいに売りとばされた者など着いたときには3万人から2万人に減っていた。マルセーユで海を渡る算段ができずに困っていると、フェレウスとポルカスという商人が無償で船を出そうといってきた。だが海を怖がる子供が多く、1212年に7隻の船に乗って聖地をめざしたのは、5000人の子供と自主的に参加した大人だけだった。
それから子供十字軍がどうなったか。7隻のうち2隻は難破し、残る5隻はアルジェリアに着いたものの、実は奴隷商人だったポルカスとフェレウスの手でアフリカの奴隷商人に売りとばされ、アレキサンドリアやカイロやバグダッドに連れていかれた。
ニコラウス率いるドイツの子供たちの運命もステファンたちと大差なかった。2万人いた子供のうちジェノヴァに着いたのは7000人だけだった。そのうえ船を調達することができずほとんどの者が帰国した。わずかに残った子供たちはローマに向かいローマ法王に謁見し、その後大人になってから1217年の十字軍遠征に参加した。
子供十字軍は悲惨な結果に終わったせいか、みんなは忘れたがっているようだけど、実は『ハーメルンの笛吹き男』の話のなかで生き続けているんだ。ケルンのニコラウスは、ドイツを離れて二度と帰らなかった子供たちの両親にとっては笛吹き男なんだ。
<ソウェト蜂起>
1976年6月16日南アフリカ。ヨハネスバーグの黒人居住区ソウェトに住む12歳になるヘクター・ピーターソンは姉のアントワネットとともに学生の抗議行進に加わった。南アフリカは人種隔離政策が取られ、黒人は土地を所有することも許可証なしに旅行することもできなかった。黒人学生にとってアフリカの言葉ではなく、公用語であるアフリカーンス語を修得しなければならないのは大きな負担であり、誇りを傷つけられることだった。
学生たちがソウェトの境界まで行進していくと、300人の武装警官が待ち構えていた。ひとりの警官の投石がきっかけになって石の投げ合いとなり、しまいには警官が学生に向けて発砲しはじめた。呆然としている学生の上に銃弾が雨のように降ってきた。
ヘクターは最初の発砲で倒れた。そばにいた年長の学生がヘクターを担いで連れ出してくれたが、アントワネットに見守られながらその学生の腕のなかで息を引き取った。ヘクターが最初の犠牲者だった。その後48時間のあいだに65人が死亡し、数ヶ月にわたる騒動のあいだに300人が殺され10,000人が負傷した。
1980年代もアパルトヘイト反対運動は続き、ついに1994年初めての国民投票で黒人指導者のネルソン・マンデラが大統領に選ばれた。ヘクターの命日にあたる6月16日には、ヘクターとこの運動で死んでいった何百人もの子供たちのための追悼集会が開かれる。
第七章 王様になった子供たち
王様だったら誰にもこき使われずにすんで最高だろうなあと思ってたけど、王様になった子供の話を集めてるうちにまちがいだって気づいたよ。たとえ王様になっても、子供だから大人の親戚の言いなりなんだ。
<テムジン>
モンゴル族のホルジギン族の指導者イェスゲイは生まれたばかりの長男テムジンを部族の者に披露した。するとひとりの女がテムジンの右手に握られている血の塊に気づき、「これは吉兆だ。この子はやがて偉大な支配者になるだろう」と預言した。
テムジンが9歳になると、イェスゲイはテムジンを連れてオンギラト族を訪れ、族長の娘ボルテと見合いをさせた。ところがテムジンを置いて帰る途中、イェスゲイは敵のタタール族に殺されてしまった。すると部族の者はテムジン一家を置き去りにして、よその土地へ移ってしまった。9歳のテムジンは部族の仕打ちにもめげず、狩猟をしながら母と弟妹を養った。過酷な生活のなかでテムジンは気性の激しいたくましい男に成長していった。
やがてテムジンの評判をきいて、たくさんの人々が仲間に加わるようになった。1206年にモンゴル全域を支配下に治め、「チンギス・ハーン」と名乗った。2年後に万里の長城を越えて中国領土に侵入し、1215年に中国全土を征服した。インドやトルコやロシアまで遠征し1227年に亡くなるときには、世界史上最大の帝国の支配者になっていた。
<王位継承者エドワード5世>
1483年4月。12歳になったばかりのエドワードは、国王である父の死をきき、急ぎ母方の伯父リヴァーズ伯たちとともにロンドンに向かった。ところがノーサンプトンで待ち伏せしていた父方の叔父グロスター伯リチャードにロンドン塔ホワイトタワーに幽閉されてしまった。やがて弟のリチャードも一緒に幽閉された。叔父のリチャードはエドワードの摂政だったが、エドワードを廃位し自ら王位に就いてリチャード3世となった。
その後エドワードとリチャードのふたりの王子を見かけた者はいなかった。殺されてホワイトタワーの階段室の下に埋められたという噂がたったが、真相は不明だった。ところが200年後の1674年にチャールズ二世がホワイトタワーのチャペルの修復を命じたところ、階段室の地下で子供の骸骨が2つ入った木製の箱が見つかった。
<若き王エドワード6世>
1547年にエドワード6世が即位したとき彼はまだ9歳だったが、誰もがこの幼い王に感銘を受けた。宗教改革家のジョン・ノックスは「イングランド王のなかでもっとも信心深く高潔な王」と述べている。エドワードは幼かったので母方の伯父サマセット公が摂政となり権威をふるったが、やがて捕らえられ処刑されてしまった。次に摂政になったウォリック伯は、エドワードの政治への参加を認めてくれた。けれど、もともと病弱だったエドワードは16歳になる直前に喀血し、1553年7月に亡くなってしまった。
新教徒だったエドワードは、自分の死後カトリック教徒である姉のメアリーが即位することを恐れ、新教徒である従姉妹のジェーンを遺言で王位継承者に指名していた。まだ15歳だったジェーンは辞退したが、周囲の説得にあい即位することになった。けれど9日後にメアリーに捕らえられ、処刑されてしまった。ジェーンは断頭台に上るとき、胸に祈祷書を抱え「神よ、私の命を捧げます」といって堂々と死んでいった。
ふたりのエドワードもジェーン女王も大人になるまで生きていたら、きっと偉大な王様になってたと思うよ。大人の権力闘争に巻き込まれずに、子供が王様として生き延びるには、テムジンのように強いか、信頼できる大人の手助けが必要なんだ。
<ダライ・ラマ>
1937年。2歳になるラモはチベットの北東の村で両親とともに幸せに暮らしていた。ある日チベットの最高指導者ダライ・ラマ13世の生まれ変わりを捜している高僧たちがラモの家を訪れ、テーブルの上に色々な品物を並べた。それらは故13世の身の回りの品々で、どれも二つずつあった。ラモがどの品も正しいほうを選ぶと、高僧たちはラモがダライ・ラマ13世の生まれ変わりだと確信した。ラモは近くの僧院に兄とともにあずけられ、4歳になるとラサの王宮に移されて即位式が行われた。ダライ・ラマ14世の誕生だった。
1950年、15歳になったダライ・ラマはチベットの最高指導者となった。しかし中国の侵略と武力弾圧が始まり、インドに亡命せざるをえなくなった。1990年までに12万人のチベット人がチベットを捨ててダライ・ラマに合流した。現在ダライ・ラマは世界中を旅して、チベットの人々の権利を訴え、中国との平和的な解決への支持を呼びかけている。
第八章 戦争を生き延びた子供たち
僕は自分のことを闘士だと思うのは好きだけど、兵士だと思うのはいやだ。現在32の国で25万人の子供が戦闘に参加してる。ほとんどが10代だ。どんな子も兵士なんかになるべきじゃない。子供は武器を持って戦うんじゃなくて、タフな精神で闘い抜くべきだ。
〈アレークの戦争〉
1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵入した。11歳のアレークも強制収容所へ連行され、わずかな食べ物で一日14時間も働かされた。数ヶ月後幼いアレークは家に帰されたが、収容所にいた900人のうち生き延びたのはアレークを含めて11人だけだった。
1942年8月にアレークの住む町のユダヤ人1400人が集められ、頑強な者や手に職を持った者150人が選び出された。アレークは「洋服屋」だと嘘をついて150人の中にもぐりこんだ。彼らは列車でウッズにあるユダヤ人ゲットーへ連れていかれ、工場で働かされた。
1944年8月にゲットーの人々は2つのグループに分けられた。老人と子供のグループと、アウシュビッツの収容所行きのグループだ。アレークは子供のグループに分けられたが、騒ぎが起こったすきにアウシュビッツ行きのグループに紛れこんだ。
1945年の4月にはドイツの敗戦は明らかだったにもかかわらず、ユダヤ人への迫害は止まなかった。再びアレークたちが集められテレジエンシュタットのゲットーへ送られたが、数日後ロシア軍によって解放された。戦後イギリスは生き残った子供たちを1000人引き取ると発表したが、150万人いた子供のうち強制収容所を生き延びたのはたったの732人だけだった。アレークはイギリスに永住し、新しい生活を始めた。
〈エヴァの話〉
ヴァイス家はチェコスロヴァキアのブラチスラヴァで暮らしていた。1944年になるとここでもユダヤ人迫害が強まり、父親は12歳のエヴァとマルタを安全な場所に避難させようと列車に乗せた。けれど近所の人の密告にあいふたりは捕まって、子供の収容所へ送られてしまった。収容所では毎日子供のグループが医学実験のためにどこかへ連れて行かれた。ある日5歳になる男の子が連行される直前にエヴァのほうを振り返って、「僕のためにカディッシュ(死者のために唱える祈とう)を唱えてよ」と叫んだ。
やがてドイツが負けてロシア軍が収容所を解放した。エヴァとマルタは両親の住むブラチスラヴァに帰った。1948年ヴァイス家はオーストラリアに移住し、やがてエヴァは結婚して5人の子供の母親になった。彼女はカディッシュを唱えるときはいつも、アウシュヴィッツで死んだ少年のことも忘れなかった。
〈貨物列車の爆破〉
15歳になるポールはパルチザンのメンバーだった。彼の初めての任務はリーダーのヴァトコと一緒に線路に爆弾を仕掛け列車を脱線させることだった。爆弾は列車が近づいてくる数分まえにセットしなければならない。ヴァトコは爆弾にコードを結びつけ、ポールから雷管を受け取った。「よし、走れ」という声でポールは走り出したが、ポーチのふたを閉め忘れていたので、残りの雷管が地面に落ちてしまった。近づいてくる列車のライトに照らされながら、ポールは雷管を集めて再び走り出した。50メートルぐらい走った所で線路が爆発した。任務は成功した。やがてポールは列車を脱線させるエキスパートになった。戦後ポールはアメリカに移住し、コンピューターの権威になった。
〈海賊とジャズ〉
ヒットラーはドイツの子供たちをヒットラーユーゲントに参加させ、ナチス党を支持させたようとしたが、なかにはそれに抵抗する子供たちもいた。エーデルワイス・パイレーツは14歳から18歳までのグループで、制服を作って襟にエーデルワイスの花と髑髏のバッチをつけていた。彼らはヒットラーとヒットラーユーゲントを憎み、「ヒットラーユーゲントに対する永久戦争」を掲げていた。しかし1944年にケルン・パイレーツのリーダーが絞首刑にされ、数多くのパイレーツのメンバーも収容所に送られた。
ジャズに夢中な子供たちもヒットラーを憎んだ。彼らはスウィング・キッズと名乗り、イギリスやアメリカの音楽をきき、ユダヤ人を歓迎したが、彼らも収容所送りになった。
〈ヘレナとステファニアの勇気〉
ポーランド人のヘレナとステファニアの住むプシェミシュルの町は、3分の1がユダヤ人だった。そのためドイツ軍がポーランドに侵攻すると、ユダヤ人はみなゲットーに追いやられてしまい、ふたりの住む大きなアパートには、女の人がひとりいるだけだった。そのときヘレナは6歳、ステファニアは16歳だった。
ある晩、血だらけのヨセフが彼らのアパートに逃げ込んできた。彼は前にステファニアが働いていたユダヤ人食料品店の息子だった。ヘレナとステファニアはヨセフの治療をして彼をベッドの下に隠した。ヨセフが回復し、友人や兄を連れてきたときもかくまった。
近いうちにゲットーが壊されるので、できるだけ多くの人を助けたいとヨセフがいいだした。ステファニアはみんなが住めるように大きな屋根裏部屋のある家をみつけてきた。ゲットーから少しずつ人を移らせる仕事が始まり、しまいには大人と子供を合わせて13人のユダヤ人を屋根裏部屋でかくまうことになった。
3年間はどうにか無事に過ぎていった。だが終戦間際に家の前にドイツ軍の野戦病院ができてしまい、看護婦用に一部屋貸すようにいわれた。看護婦が引っ越してくると、毎晩のように恋人が訪ねてくるようになった。その部屋の上には13人のユダヤ人をかくまっている屋根裏部屋があった。ステファニアとヘレナは生きた心地がしなかった。今日こそ見つかって射殺されると覚悟した。とうとう8ヶ月後にロシア軍がプシェミシュルの町を解放した。ロシア軍の兵士は、ふたりが13人ものユダヤ人を3年間にわたってかくまっていたことを知ると、「女の子ふたり、いやひとり半でたいしたもんだ」といって驚いた。
ふたりの少女の優しさと勇気のおかげで、13人のユダヤ人とその子供たちと孫たちの3世代は今も元気に暮らしている。
これで僕の話もおしまいだ。ある意味で誰だって自分の人生のヒーローなんだ。誰だって正しいと思ったことをやり通せるかどうか、試される時がくる。だから天才やスーパースターである必要なんてないって、わかっただろ。子供だってやるときゃやるんだ。
この本を読んで子供や世界について真剣に考えるようになったら、参加する方法はいくらでもあるよ。人権擁護団体やアムネスティー・インターナショナルはオーストラリア中の中学校にユース・ネットワークを持ってる。ほかにはクレイグ・キールバーガーと「フリー・ザ・チルドレン」、アマンダたちのブロード・ミードー中学校の子供たちともインターネットで連絡を取れるよ。
[評価・感想]
初めて知る話も多くとても興味深く読めた。歴史上の話と現代の話、男の子が主人公の話と女の子が主人公の話といった具合に、バランスを考えて編集されている。主人公の年齢も10代もいれば、2歳の子や8、9歳の子もいる。ただ全体としては12歳ぐらいの少年少女が多く、作者はこの年代の読者を念頭に置いて書いたものと思われる。
特に心に残った話は、第五章の「イクバル」関連の話と第八章のホロコーストの話だ。どちらも辛い環境の中で生き抜いた子供たちと、そんな彼らを助けようと全力を傾け、時には命をかけた子供たちが登場する。どの子もは勇気と行動力だけでなく、目的を達成するための知恵を持ちあわせている。まさに案内役のミロがいったように「タフな精神で闘い抜いた」わけだ。「イクバル」のクレイグ・キールバーガーやアマンダたちがインターネットを使って賛同者を募り、募金を集めたやり方はきわめて現代的だし、ステファニアが知恵を働かせてユダヤ人をかくまったやり方は人の心理の裏をかいて見事だ。ただ、彼らが置かれている過酷な状況(児童労働とホロコースト)を作り出したのは大人なので、のほほんと彼らの勇気をたたえているわけにもいかず、胸が痛んだ。
とはいうものの子供の立場で読めば、「子供が子供から勇気をもらえる」本である。読み終わった後に「子供もやるじゃん」と胸を張って口笛のひとつでも吹きたくなると思う。またこの本は歴史上の出来事から現代世界が抱えている問題まで幅広く網羅されているので、「楽しめる啓蒙書」としても読んで欲しいと思う。
last updated 2003/12/25