■2001年
『日のあたる白い壁』(江國香織) 『シアター・ドロップス:小劇場の友』(岡崎香)
『戦後名詩選 I II』(野村喜和夫&城戸朱里) 『アクリリックサマー』(佐藤弓生)
『京都・舞妓と芸妓の奥座敷』(相原恭子)
『百貌百言』(出久根達郎)
『漢字と日本人』(高島俊男)
『東大生はバカになったか』(立花隆)
『立花先生、かなりヘンですよ』
『論争・東大崩壊』(竹内洋)
■2002年
1月号
『アイビーの時代』(くろすとしゆき)『増補・戦後ファッションストーリー』(千村典生)
『水玉の幻想』(沼田元気) 『空から堕ちた』(黒田征太郎)
『喫茶店の時代』(林哲夫)
『カフェー小品集』(嶽本野ばら)
『ぼくと伯父さんの喫茶店学入門』(沼田元気)
「談別冊コーヒー」
『宮尾本・平家物語』(宮尾登美子) 『新釈・平家物語』(松本章男)
『Heavier Than Heaven』(チャールズ・R・クロス著、竹林正子訳)
『無限の網』(草間彌生)
6月号 『古本スケッチ帳』(林哲夫) 『紙表紙の誘惑』(尾崎俊介)
2001年9月号
日のあたる白い壁 江國香織
シアター・ドロップス:小劇場の友 岡崎香
「そこに風が吹いていることをわからせる画家はたくさんいるが、風を確実に閉じ込められる画家は、ゴッホしか思い浮かばない。どう違うのかといえば、圧倒的なしずけさだ」
「ところで、どうしてだろう、私はオキーフの絵だけじゃなく、絵の周りの空間ごと好きだ。美術館の、オキーフの絵のあるスペースが好き」
江國香織というプリズムを通してみた二四枚の絵が、ここに並んでいる。そのプリズムは圧倒的な個性を持っているくせに、驚くほどおしつけがましさがない。そして読んでいるとときどき、それらの絵はすべてプリズムの向こうにあるのではなく、プリズムに閉じ込められているのではないかという気がしてくる。しかしなにより不思議なのは、ここに取り上げられている絵を描いた画家はすべて架空の人物であって、このエッセイ集はじつは短編集なのではないかという気がしてくることだ。この本、決して実用的ではない。
さてもう一冊は編著者の熱気がむんむん伝わってくる小劇団の紹介本。松尾スズキ(大人計画)との対談、千葉雅子(猫のホテル)や五味祐司(双数姉妹)や古田新太(新感線)などの取材、松村武(カムカムミニキーナ)や長塚圭史(阿佐ヶ谷スパイダース)などのインタビュー、その他、舞台裏から小道具の話、さらに劇場の幽霊話まで、いたれりつくせりである。そして最後にまとめてある「演劇団体Data101」は「筆者オススメの小劇団系劇団・演劇ユニット」の紹介。このコーナーの目配りのよさにも感動。古すぎず新しすぎず、とても気持ちがいい。とにかく、この本、ここ数年に出た小劇団関係の本では一押し。
唐、蜷川、野田、つか、鴻上といった大御所しか観ない人にも、こういった大御所の嫌いな人にも、なんでも観る人にも、歌舞伎しか観ない人にも、なんにも観ない人にも、ぜひぜひ勧めたい一冊。この本、じつに実用的である。
2001年10月号
戦後名詩選 I II 野村喜和夫&城戸朱里
アクリリックサマー 佐藤弓生
図書館にはぜひ、詩集を入れてほしい。それも戦後の新しい詩人のものを。たとえば、「思潮社の現代詩文庫」を。田村隆一から高橋順子まで一六三冊出ている。これらの詩人の名前を見るたびに、わくわくしてくる。そのなかから選び抜いた詩をまとめたのが「戦後名詩選I・II」。編者は野村喜和夫と城戸朱理。日本国民必携の一冊である。ここにはとことん研ぎ澄まされた日本語のエッセンスと可能性がつまっている。火薬庫の危うさと、祭りの高揚感に充ち満ちている。編者のコメントも素晴らしい。「吉増剛造。この名前とともに、戦後現代詩は未聞の言語空間を開くことができた・・・時代の所持していたエネルギーとも呼応するかのように、ウルトラモダンな疾走感覚と言葉の原初的なエネルギーの解放がもたらされる」「すでに戦後詩という理念が臨界を超え、その実効性を失いつつあった八0年代、もっともラディカルな展開を見せた詩誌『麒麟』に依りながら、しかし、松浦寿輝の詩が開示してみせたのは、ノスタルジーに満ちた世界像だった」
いまでも新しい詩人や歌人が思いがけない言葉を携えてやってくる。たとえば佐藤弓生が第二詩集と第一歌集を九月一八日に、軽く放ってよこした。
「ビルが落ちてくる/壁が落ちてくる/もろもろと 厚い/夜が倒れこんでくる/あなたが落ちてくる/窓が落ちてくる/ガラスが落ちてくる/いつまでも/はらはらと 高い/星が落ちてくる/胸が落ちてくる/わたしは支える/墜落するセスナ機を/受けたというみずうみ/のように/つぶれ ひろがり 飛び散りながら/支える」(「冬、あなたは不時着する」・『アクリリックサマー』より)
「ゆるやかな球面未来にいるきみへ 〈冬ノ航空公園デ待ツ〉」「夏がみている夢ひとつ 髭先のひかりかすかに重い白猫」(『世界が海におおわれるまで』より)
2001年11月号
京都・舞妓と芸妓の奥座敷 相原恭子
百貌百言 出久根達郎
漢字と日本人 高島俊男
故金関寿夫氏の名言に「京都は日本じゃない」というのがある。京都が異国とすれば、花街はさしずめ異界。異国・異界は恐ろしいが、反面魅力的でもあるから、憧れるだけの貧乏な門外漢は行くことはかわなぬまでも、せめてその片鱗にでも触れたいと、ついつい本などを買ってしまう。たとえば去年、今年に出た『祇園に生きて』(角川書店)とか『お茶屋遊びを知っといやすか』(廣済堂)とか。しかし両方とも、いわゆる「おかみさん」の語りであって、リアリティはあるものの、全体像がみえないうらみがある。と、そこでこの『京都・舞妓と芸妓の奥座敷』。これは花街の歴史や構造から、ファッションや行事までが大まかに、しかしていねいにまとめられていて、格好の手引き書になっている。行けない人も、行きたい人も必読の一冊。
さて次は、日本を代表する傑出し卓越した異形の人々百人の横顔をそれぞれ見開き二頁にまとめた『百貌百言』。内田百閒、三島由紀夫から、荒畑寒村、大杉栄、さらに美空ひばり、石原裕次郎から昭和天皇、古今亭志ん生などなど・・・「二十世紀を生きた百人の、エピソードでつづる伝記と、名言集」。どれをとっても、作者の鋭い眼光と温かい視線が感じられる。天国のボルヘスも日本語が読めたら大喜びしそうな、読む楽しさが凝縮された一冊。
最後は『漢字と日本人』。「とる」という語には、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などとあるが、どうつかいわければよいか・・・という手紙を受けとるたびに、作者は「強い不快感をおぼえる」。「え、なんで?」と思った人はすぐに書店にいくこと。ここには日本語と漢字の相姦関係(誤字ではない)が見事に説明されている。とくに後半の「明治以後」と「国語教育四十年」は日本国民必読の二章といっていい。
十月の新書は文春のものが突出していたように思う・・・のはぼくだけだろうか?
2001年12月号
東大生はバカになったか 立花隆
立花先生、かなりヘンですよ
論争・東大崩壊 竹内洋
『長島はバカではない』というタイトルも強烈だったが、『東大生はバカになったか』というタイトルもすごい。これは徹底的な、東大批判であるとともに戦後教育および文部省批判でもあり、「知的亡国化」を救うための新たな教養教育の提言でもある。あまりに極端なところもあるし、これからはバイオテクノロジーの時代だから生物をもっと強化するようにという発想は、この会社に投資しておけば将来もうかるという株屋の発想と変わらないような気もする。が、力作ではある。
これに対して、当の東大生から大クレームがついた。『立花先生、かなりヘンですよ』は、彼の科学的知識、つまりインターネット、人工知能、宇宙開発、遺伝子操作などに関する知識の初歩的な間違いや考え違いを指摘し、統計の読み方を批判し、立花隆はオカルティストであると断言し、「静かな退場」を要求して終わる。こちらも立花隆を徹底的に研究しての力作。
さて『論争・東大崩壊』は東大および東大生に関するアンケートや調査の分析から、賛否両論・好悪両極端をとりまぜた好企画。学力、偏差値、政治意識、日常生活といったデータや分析もあれば、「”アソビの劣等生”大学」という田中康夫・泉麻人のエッセイもあり、また東大教養部の新しいテキスト『知の技法』を橋本治がほめれば、詩人の飯島耕一がこきおろす。最後には「東大を私学に」という提言まで載っている。そのなかで最もバランス感覚よく東大生をながめているのは、竹内洋の「教養からの逃走と教養への逃走」かもしれない。
ここ数年、この手の本が次々に出版されている。この原稿を書いているあいだにも、『大学生の学力を診断する』(岩波新書)『大学生の常識』(新潮選書)が出た。大学批判とは、文部省批判でもある。しかしなぜか文部省は知らん顔だ。せめて、『これでいいのだ、日本の大学』という本でも出してほしい。
2002年1月号
アイビーの時代 くろすとしゆき
増補・戦後ファッションストーリー 千村典生
高校時代からおしゃれをしてみたくて『男性専科』を立ち読みしていた・・・という筆者は大学に入り、当時アメリカは東海岸で都会的なファッションとして知られていた「アイビー」に憧れ、「アイビー・クラブ」を設立する。しかしなにしろ一九五八年のこと、日本でアイビーなんて知ってる人間はほとんどいない。筆者はアメリカの本や雑誌を漁っては、盲人が象に触って象を想像するがごとく想像をふくらませ、それを尺貫法で仕立てている洋服店のおやじさんと相談して、スーツなどを作ってみる。アイビー熱は高まる一方で、筆者は大学卒業後VANに勤めるようになり、ついに念願のアメリカに上陸。VANの「アイビー路線」の宣伝映画を撮る。
六五年前後からアイビーが大流行。アイビーは「不良」のレッテルを貼られ、アイビー族は「銀座のこじき」と呼ばれ、VANは地方の教職員の間で目の敵にされた。
この流れを豊富なカラー写真とともに追ったのが『アイビーの時代』。微笑ましく、楽しく、抜群に面白く、筆者の熱い思いが伝わってくる。
こういう本を読むと、じゃあ日本のファッションのなかでアイビーって、どんな位置を占めているんだろうという疑問がわいてくる。それにずばり答えてくれるのが『増補・戦後ファッションストーリー』。これは一九四五年~二000年を丹念に追ったファッション史だが、時代・風俗を広く視野に入れながら、繊維工業やアパレルメーカーといった産業にも目を向け、さらにデザイナーやファッション・メーカーもしっかり照準に入っている。前書きにもあるように、ファッションの成立要素である「送り手とモノと受け手」の三つをバランスよく捉えているのがすごいし、あちこちに思わぬ発見がある。とくに「一生、賢三、寛斎、川久保玲、山本耀司」など第二世代を扱った部分は力が入っている。索引も充実していて、とても使いやすい。
2002年2月号
水玉の幻想 沼田元気
空から堕ちた 黒田征太郎
去年『ぼくの伯父さんの喫茶店学入門』(ブルース・インターアクションズ)という本が出た。縦横無尽に、勝手気ままにカフェを語ろうというコンセプトから生まれたこの対談集の仕掛け人のひとりが沼田元気。彼が今度は、びっくりするほどきれいでいかがわしい、コラージュ集を出した。富士山、銭湯、クラゲ、珊瑚の見本、海、昔の絵葉書、金魚、マンボウ、水道栓、ヒトデ、宇宙飛行士、生ダコの刺身、エスカレーターに乗った和服のお姉さん、芸妓さんの顔写真・・・そういった写真を手当たり次第に継ぎ合わせ張り合わせ切り合わせ混ぜ合わせてできたこの本は、ときに猥雑で、ときにグロテスクで、ときにレトロで、ときにキッチュで、全体としてとても美しいという珍本。全頁の真ん中にドスンと開いている直径一・二センチの穴も、他愛ない思いつきに見えて、じつは深遠な思想が隠れていそうで、本当はどうでもいいという感じが素晴らしい。
黒田征太郎はニューヨークに移り住んだ十年前を思い出してこう書く。「星条旗にグルグルまきにされて、みうごきも出来なければ世の中も見えやしないロボットのような僕が、地面からすこし浮かんだまんま死んでゆくのです。『このまんまでくたばってたまるかい』と僕は思いました・・・『オレのイノチはおれのもんや』と思ったぐらいのこと、ようするに僕のアメリカにオウカガイを立てない絵を描きたいなーと思っただけなのです」そして去年のテロ事件を目の当たりにみて、「『オレはアホや』と思いながら目の前にあるニューヨークタイムズ新聞を切り貼り、その上に僕の正直なところを、ぬりつけ、カキコミ」日本に送った。そのカードを中心にできあがったのが、この本。作者の、さけびとつぶやきとぼやきとささやきが、驚くほどの説得力と迫力をもって迫ってくる。
今回はコラージュの無限の可能性を証明した二冊を。
2002年3月号
喫茶店の時代 林哲夫
カフェー小品集 嶽本野ばら
ぼくと伯父さんの喫茶店学入門 沼田元気
談別冊コーヒー 林哲夫
『喫茶店の時代』は、カフェー、ミルクホール、クラシック・ジャズ喫茶、禁色喫茶(美少年愛好者が集まる店)など多くの店を取り上げているが、その中心は文学者・芸術家の書きとめた喫茶店と、喫茶店に出没した文学者・芸術家である。鴎外、漱石、菊池寛、荒畑寒村から五木寛之、中上健次、植草甚一、坂本龍一などの文章をちりばめ、各時代における喫茶店をたくみに描き出し・・・喫茶店を視点に各時代を巧みに描き出している。「センスと発想と目配りのよさ+手間暇惜しまぬ資料へのこだわり」に脱帽!
これに加えて去年出た三冊の本を。
まず嶽本野ばらの『カフェー小品集』。取り上げられているのは無味乾燥なシアトル系カフェでもなければ、青山原宿代官山のこじゃれたカフェでもない。時代に取り残された喫茶店だ。その「お店の誕生から現在に至る物語を探り、その空間に浸り・・・それを絡ぎ合わせると、エッセイ集とも短編小説集ともガイドブックともとれない不思議な小品集が出来上が」った。一見レトロにしかみえない空間に現代と自分を置いた「僕と君」の物語は、そのひとつひとつが一種異様に美しく曇った輝きを放っている。
『ぼくと伯父さんの喫茶店学入門』は、喫茶店に関するごちゃ混ぜ談義集。コーヒーのいれかた、喫茶店と音楽や建築との関係、邦画・洋画に出てくるカフェ、カフェをめぐるジェネレーション談義、はてはカフェ俳句まで。無節操なところが魅力の一冊。
次はめちゃ硬派の「談別冊コーヒー」。前半は「焙煎のメカニズム、抽出のメカニズム」に関する科学的解説、手網焙煎の方法、コーヒーの植物学、カフェインの効用など。後半は「日本人がコーヒーを飲むようになった本当の理由」や「『カフェ』のメディオロジー」といったエッセイ、薄井隆一郎と松浦寿夫の対談など。コーヒーを語るなら、これくらい読んでおきたい。
2002年4月号
宮尾本・平家物語 宮尾登美子
新釈・平家物語 松本章男
これだけ取りざたされ持ち上げられると、観る気にもなれない『ロード・オブ・ザ・リング』。つい出来心で観てしまったら、あっという間の三時間で、また前売り券を買ってしまった。この映画のすごいところは、「戦い」と「友情」を中心にすえ、それ以外をいさぎよく切って捨てた「裏切り」にも近い見切りの良さだろう。瀬田貞二の誤訳にも近い「ですます調」の翻訳からは想像もつかないだろうが、そもそもトールキンの『The Lord of the Rings』はある意味、すさまじい戦いのなかを必死に逃げながら使命を全うしようとするフロドの物語なのだ。原作は、英語の好きな人なら高校生でも読める程度のやさしい、そして歯切れのいいいい文体なので、指輪ファンならぜひ原書にチャレンジしてほしい。
『指輪物語』は、乱暴にいえば〈『ニーベルンゲンの指輪』+『アーサー王物語』〉みたいなところがあって、『アーサー王』といえば『平家物語』。どちらも〈政治+戦い+盛者必衰〉に哀切な恋物語とペーソスをきかせた歴史ファンタジーで、魑魅魍魎(モンスター)も次々に登場する。『新・平家物語』(吉川英治)から『双調・平家物語』(橋本治)まで、これほど語り直し、訳し直しの多い古典はほかにないだろう。
週刊朝日で連載中の『宮尾本・平家物語』の第二巻が出た。原作を大切にしながら、徹底して自分に引きよせて語ってしまう、その魅力と楽しさは格別。二巻でやっと「義経、平泉へ」まで。これは確かに、宮尾登美子のライフワークになるかもしれない。
そして『新釈・平家物語』(松本章男)が出た。こちらは物語というよりは、原文を引用し、解説・解釈をそえながら、解釈を交えての講釈。二巻にまとまっているので全体が概観でき、背景もわかりやすく説明されているうえに、なにより、おもしろい。
二一世紀の『平家』はまずこのふたつから。
2002年5月号
Heavier Than Heaven チャールズ・R・クロス著、竹林正子訳
無限の網 草間彌生
八〇年代後半を鮮やかに演出し、粉々に砕け散ったロック・グループ、ニルヴァーナの顔、カート・コバーン。『Heavier Than Heaven』は、彼の伝記の決定版といっていい。徹底したリサーチに基づいて書かれたこの本は、ずっしり重く、十分に読み応えがある。また、「ニルヴァーナは嫌でも愛したくなるようなバンドだった。なぜなら彼らはどんなに有名になっても、いつも弱者のようだった・・・」という作者の視点も、よくわかる。
内容は徹底して暗い。まず九二年、カートがドラッグの過剰摂取で一度死んで蘇生するところから始まる。そして幼い頃からの生い立ち、音楽への傾倒、ニルヴァーナ結成、二七歳の死、と続いていくのだが、自己嫌悪とドラッグと狂気の無限の網にからめとられていくカートの姿は、怖ろしく、また悲しい。
一方、『無限の網』は、六0年代ニューヨークのアート・シーンに出現した事件、草間彌生の自伝。幼い頃から強度の強迫神経症に悩み、その恐怖を絵にすることで生き抜いてきた彼女は、オキーフに導かれるかのようにアメリカに行き、極貧生活のなかで、ひたすら「網」を描いていく。
「私はノイローゼにしばしば悩まされた。カンヴァスに向かって網点を描いていると、それが机から床までつづき、やがて自分の身体にまで描いてしまう。同じことを繰り返し、繰り返しすることで、網が無限に広がる。つまり、そこでは自分を忘れて網の中に囲まれてしまい、手も足も、着ているものまで、部屋中すべてが網で満たされていく」
この真っ黒い大きなカンヴァスに描かれた微粒子の白いネットで、ニューヨークの前衛美術の世界に飛びだしてからの「世界のクサマ」の活躍は、わざわざここで紹介するまでもないだろう。彼女は全身に満ちた狂気に全身で立ち向かい、それをさらにふくらませ、エネルギーに変えることで現代を駆け抜けていく。
2002年6月号
古本スケッチ帳 林哲夫
紙表紙の誘惑 尾崎俊介
今回のテーマは古本!
まず一冊目は『古本スケッチ帳』。作者は博覧強記の人である。それは昨年出た、文学サイドから強引に並べてながめた喫茶店のエッセイ集『喫茶店の時代』という著書からもうかがえるが、今回の本はそれに輪をかけてマニアックな古書関係のエッセイ集。梶山季之の稀覯本に関する連作集『せどり男爵奇譚』や、三浦しをんの古本屋青春小説『月魚』の横に並べると、本好きにはたまらない心地よく秘密めいた空間ができる。
たとえば「早すぎた天才」という章は「日夏耿之介監修のもと、正岡容の弟、平井功が一九二九年中に四冊だけ刊行したきわめて珍しい雑誌」の話で始まり、やがてイギリスの贋作詩人トマス・チャタトンに行き着く。
作者はこの本で、マンガを語り、詩を語り、フランス文学を語り、装幀を語り、コレクターを語り、「書物と印」を語り、最後に正誤表を語って締めくくりとする。見事!
二冊目は『紙表紙の誘惑』。アメリカの女流作家フラナリー・オコナーの、思い切り文学しているゴシック風の小説『賢い血』のペーパーバック版の表紙が、妙に安っぽく通俗的なのはなぜかという疑問から出発して、作者はどんどんこの魔界のなかに突き進んでいく。「ペンギン・ブックス」という名称は、これを創刊した男が「威厳があって、しかも軽薄」な動物か鳥の名前にしたいと言い出したためであるとか、『ライ麦畑でつかまえて』のペーパーバック版の表紙が大嫌いだったサリンジャーが出版社と大げんかをした話とか、興味深いエピソードを満載した楽しい本だが、それだけではない。これは印刷、製本、装幀、表紙といったハードの側面からみたアメリカ文学小史、アメリカ文化小史、アメリカン・ポップカルチャー小史にもなっているのだ!
林哲夫といい尾崎俊介といい、どうしてこんなにセンスがいいんだろう。
copyright © Mizuhito Kanehara
last updated 2004/2/23