「ト ー ハ ン 週 報」

2001/10〜
「あれもYA これもYA」

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■2001年10/12号
 『声に出して読みたい日本語』齋藤孝著(草思社)
■2001年11/9号
 『常識の世界地図』21世紀研究会編(文春新書)
■2001年12/14号
 『アメリ』イポリト・ベルナール(リトル・モア)
■2002年1/?号
 『家なき鳥』グロリア・ウィーラン著 代田亜香子訳(白水社)
■2002年2/8号
 『自転車生活の愉しみ』疋田智著(東京書籍)』
■2002年3/8号
 『ハルーンとお話の海』サルマン・ラシュディ作 青山南訳(国書刊行会)
■2002年4/12号
 『日記をつける』荒川洋治(岩波アクティブ新書)
■2002年5/3・10合併号
 『無限の網・草間彌生自伝』(作品社)
■2002年6/14号
 『だれかのいとしいひと』角田光代(白泉社)
■2002年7/12号
 『不美人論』陶智子(平凡社新書)
■2002年8/9・16号
 『ケルトとローマの息子』ローズマリー・サトクリフ著 灰島かり訳(ほるぷ出版社)
■2002年9/13号
 『きみとあるけば』伊集院静+堂本剛(朝日新聞社)
■2002年10/11号
 『「シャッキッと炒める」を英語で言うと』加藤祐子(幻冬舎)
■2002年11/8号
 『臨機応答・変問自在2』森博嗣(集英社新書)
■2002年12/13号
 『黄色い目の魚』佐藤多佳子(新潮社)
■2003年1/10・17合併号
 『キッズだけじゃもったいないブックス』(ペイパーウェイト・ブックス)
■2003年2/14号
 『歌う生物学・必修編』本川達雄(TBSブリタニカ)
■2003年3/14号
 『イラン映画をみに行こう』(ブルース・インターアクションズ)
■2003年4/11号
 『暮らしの手帖「叱る!!」』(暮らしの手帖社)
■2003年5月/2・9合併号
 『14歳からの哲学』池田晶子(トランスビュー)
■2003年6/13号
 『身捨つるほどの祖国はありや』寺山修司(PARCO出版)
『踊りたいけど踊れない』寺山修司+宇野亜喜良(アートン)
■2003年7/11号
 『活発な暗闇』江國香織(いそっぷ社)
■2003年8/8号
 『ピースローソク』辻信一対話集(ゆっくり堂)
■2003年9/12号
 『回転ドアは、順番に』穂村弘+東直子(全日出版)
■2003年10/10号
 『プロ家庭教師の技』丸谷馨(講談社現代新書)
■2003年11/14号
 『鉄道ひとつばなし』原武史(講談社現代新書)
■2003年12/12号
 『仮名手本忠臣蔵』橋本治+岡田嘉夫(ポプラ社)


2001年10/12号『声に出して読みたい日本語』齋藤孝著(草思社)

 これは珍しい。小中高大と、どこの学校でも使えるし、どこの学校で使ってもおかしくないし……ひとりで読んでも気持ちいいし、人にあげても喜ばれるだろうし……使い方によっては、むちゃくちゃ楽しい……そんな本て、ほんとに珍しい。
 どんな本かというと、なんてことはない。語呂のいい文章を集めて一冊にしたものだ。  『万葉集』『源氏物語』『土佐日記』などの古典から、能、狂言、歌舞伎、文楽、詩吟、漢詩、浪曲、落語、お経、唱歌、早口言葉、大道芸人の口上、明治以降の詩人の詩、近代作家の小説の冒頭、沖縄の「おもろさうし」、アイヌ神謡まで、とにかく様々なジャンルの作品から、読んで楽しい、聴いてわくわくする文章がピックアップされているのだ。
 そのうえそれぞれに添えてある口語の要約と解説がまたいい。
「私は自分の教育研究を指圧の研究から始めた。上手な指圧師は、相手の受け入れの構え〈積極的受動性〉を引き出す。そして「響き」がその後からだに残るようなツボの押さえ方をする……教育と上手な指圧とは実によく似ている」
 そう、これは鑑賞するべきものではなく、あくまでも「暗誦もしくは朗誦することをねらいとして編んだもの」である。いま忘れられようとしている日本語のリズムを再確認して、後世に伝えていくための……といった年寄りじみたお勧めの言葉はまったく必要がない。実践的で、自分や相手の〈積極的受動性〉を引き出すためのテキスト。
 わかってもわからなくてもいいけど、とにかく、面白いし楽しいから、読んでみて! そういいたい。意味なんかわからなくていいから、まずは覚えろよ、ほら、楽しいじゃん……こういう教育がいつのまにか消えてしまった……そしてここによみがえった。)

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■2001年11/9号『常識の世界地図』21世紀研究会編(文春新書)

 かつてアステカ帝国を侵略したスペイン人たちは、アステカの人々が敵の捕虜の心臓をえぐりだして神に捧げるのをみて、なんと野蛮で残酷な連中だと思った。が、いっぽう当時のヨーロッパでは神の名の下に、多くの「魔女」が火あぶりになっていた。またヨーロッパの人々は中国の纏足を、なんとも野蛮で残酷な女性蔑視の風習として非難した。が、いっぽう当時のヨーロッパの上流社会では骨が曲がるほどきついコルセットが流行、オレンジ一個くらいの細いウエストの女性がもてはやされていた。
 価値観や美意識は、その社会によって驚くほど異なっていて、それは昔も今もかわらない。「常識」も同じ……という立場から編集されたこの本、いろんな意味でおもしろい。
 たとえば、挨拶や身振りの違いや作法の違いについての章なども意外な発見に満ちているが、なかでも「食をめぐるタブー」と「宗教に生きる人たち」が強烈だ。はやり生や死に直結するからだろう。
 牛肉と牛乳は同じ冷蔵庫に入れず、またハンバーガーは食べるがチーズバーガーは食べないユダヤ教徒。豚を食べないだけでなく、豚革製品さえ身につけないイスラーム教徒(「イスラームの自爆テロに苦しむイスラエルでは、自爆したテロリストたちを汚れた豚と一緒に埋めてしまえという運動が、2001年夏頃から起こりはじめたという。そうすれば、イスラーム教徒であるテロリストは天国に行けなくなるだろうし、テロの抑制にもなる・・・」)
 この新書、興味本位の雑学本という感じなのだが、なんのなんの、とても大切なことを教えてくれている。とくに若い人に読んでほしい。

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■2001年12/14号『アメリ』イポリト・ベルナール(リトル・モア)

 『友だちの家はどこ』の監督キアロスタミも子どもを描くのがとてもうまいが、『ロスト・チルドレン』の監督ジャン=ピエール・ジュネも抜群にうまい。そのジュネの新作がやってきた。タイトルは『アメリ』。深紅の壁を背にベッドに座っている女の子のスチール写真をみたとたん、前売り券を買いに行きたくなってしまう。そのくらい、ジュネの映像の魔力は強い。それを本にすると……なるほど、こんなふうになるのか……と、思わず納得させられてしまった。
 新書サイズで「100%オレンジ」の挿絵がふんだんに使ってあって、それもときどき二色。女の子ならまず手に取ってみたくなる本だろう。そしてストーリーは軽くて楽しくて、ちょっと切なくて、最後はハッピーエンド……
 モンマルトルのカフェで働いている女の子アメリをめぐる不思議なエピソードや奇妙な人々……バスルームの壁のタイルの向こうから出てきた古いキャンディーの缶(子どものがらくた入り)、体の骨がガラスのようにもろくて外出できずルノアールの絵の複製ばかり描いている老人、木彫りのドワーフの人形だけを相手にしているアメリの父親、スピード写真機のごみ箱に捨てられた失敗写真ばかり集めている男の子(ポルノショップで働いている)……
 そんななか、アメリはささやかないたずらで、回りにささやかな奇跡を起こしていくのだが、引っ込み思案なので自分のこととなると、つい身を引いてしまう。心ときめかせる男の子と出会ったものの、どうしていいかわからない。さて……?
 というポップでキュートで、ちょっとシュールなパリのささやなかファンタジー。映画は映画で、本は本で、二度も三度も楽しめそう。

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■2002年1/?号『家なき鳥』グロリア・ウィーラン著 代田亜香子訳(白水社)

 父親が早くに死に、母親は再婚するが、その結婚相手が強欲で残酷で、あげくの果てに自分の妹を連れてきて家を乗っ取ってしまい、主人公の男の子は家を追い出されて、まだ十歳だというのに工場に働きに出される……というのは19世紀イギリスの大作家チャールズ・ディケンズの傑作『デイヴィッド・コッパーフィールド』の初めの部分。こういう過酷な運命に翻弄されながらも、やさしい人々に助けられて、たくましく生きていく少年や少女の物語はいつの時代でも強く心を打つ。そして様々に形を変えてよみがえり、そのたびに読者を驚かせ、感動させる。
 たとえば、こんな作品がつい最近出た。
 お父さんがなけなしの家具や牛を売って作った持参金を持って、十三歳の少女コリーは結婚することになった。しかし結婚相手の男の子は病弱で死期が近づいていた。そもそもコリーの持ってきた持参金は、その男の子をガンジス川まで連れて行くためのものだった。やがて男の子は死に、コリーは義母にいじめられ、あげくの果てに捨てられてしまう。こうしてコリーは自分の道を切り開いていくことになる。
 グロリア・ウィーランが全米図書賞を受賞した『家なき鳥』は、まさに『デイヴィッド・コッパーフィールド』の現代インド版といっていい。ただ違うのは、ディケンズよりずっと短いことと、冗長な部分がないことだろうか。200頁足らずのなかに、十三歳で結婚し、十七歳で再婚するコリーの半生が鮮やかに描かれている。
 この物語の背景には……タマリンドの葉ずれの音、シタールの音色、レンズマメの花、シカンジー(ライムとジンジャーのジュース)、ラッシー(ヨーグルトとフルーツと香料をまぜて氷を加えた飲み物)……そして、コリーが心から愛しているタゴールの詩集。

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■2002年2/8号『自転車生活の愉しみ』疋田智著(東京書籍)

 高校三年間は、片道30分の自転車通学だった。軽いパンクくらい手早く修理できる道具も自転車に装備していたし、五段変則のスポーツ車を二台、使いつぶしてしまった。なにしろ田舎の高校で、梅雨時になると田圃の真ん中を走っている田舎道が泥水の下に没してしまい、数メートルおきに立っている電柱を目印に走らなければならないという過酷な状況だった(もちろん、正規の舗装道路もあったけど、そちらを走ると5分余分にかかってしまうので、遅刻常習犯には無縁の代物だった) だから自転車にはうるさい。錆びついた自転車に乗って、歩道をとばして(歩行者に方々に申し訳ないという気持ちを!)、交差点で耳障りな音を立ててブレーキをかけ、ぐらっと傾いて、左側に降りる連中のをみると(ちゃんと両足をつけて止まれって)、思わず怒りがこみあげてくる。
 というわけで、この本はまず、傍若無人に歩道を自転車で走る自転車おんちの人々に読んでほしい。それから次に小中高大学生に。自転車って、ほんとに楽しい。だから楽しむための基本を知ってほしいと思うのだ。それもできるだけ若いときに。
 自転車を楽しむためのノウハウ全てが、この一冊にきちんと紹介されている。自転車の選び方(ロードレーサー、トライアスロン、ランドナーからママチャリまで10種類以上のタイプを細かく分析検討)、運転術(坂、風、雨の対処法からブレーキのかけかた、ペダリング、バスの回避の仕方など)、そしてメンテナンス
 しかしこの本のいちばんいいところは、なにより、自転車が好きになってしまうことだろう。「ゆっくり加速してゆっくり停まる」自転車は、駕籠や人力車をのぞけば、とても人間の生理に即した乗り物だ。これを乗りこなし、愛するようになるためには、やはり本と同じで、ヤングアダルトと呼ばれる時期までに自分の物にしておいたほうがいい。
 書店にも、図書館にも、自転車屋にも、学校にも、並べてほしい本である。

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■2002年3/8号『ハルーンとお話の海』サルマン・ラシュディ作 青山南訳(国書刊行会)

「むかしむかし、アルファベーという国に、悲しい町がありました。とても悲しい町で、悲しみに押しつぶされて、町は名前もすっかり忘れてしまいました。そばには悲しみがいっぱいの海があって、フサギノウオがどっさりいました。食べると憂鬱になるその魚を食べた者は、空がどんなに青くても、たちまちげっぷをしてふさぎこんでしまうのでした」  いいファンタジーというのは、冒頭の数行で読者の心をぎゅっとつかんでしまう。そして最後まで期待を裏切らない。。
 さて、この町には、次から次に楽しい話を語るラシードという男がいたのだが、妻に逃げられて、話を失ってしまう。絶望のどん底に突き落とされたラシードは、ハルーンという名前のしあわせな息子を連れて旅に出る。ふたりは、スピード狂の運転する郵便車に乗ってIトンネルを抜け、K谷の日没をながめ、ツマラン湖へ。ふたりを待ち受ける奇妙な事件、そして不思議な人々・・・デモモ、モシモ、ピーチク王子、パーチク姫、ショモツ将軍、ワイワイ、ガヤガヤ、イッカンノオワリ。。
 はたしてラシードは失った物語を取りもどせるのか、妻はもどってくるのか、悲しい町はいつまでも悲しい町のままなのか、ハルーンは物語の源を見つけ出すことができるのか、ほんとうでもないお話がなんの役に立つのか・・・様々な疑問を投げつけ振りまきながら、この物語は爆走する。そして最後近く、ハルーンはたずねる。 「ぼくは悲しい町から来たんです。そこは悲しすぎて悲しすぎて名前も忘れてしまっているような町です。ハッピーエンドをくださいますか。ぼくの冒険だけじゃなくて、その悲しい町ぜんぶにも」。
 さて・・・?。
 言葉遊びと奇想をユーモラスにまとめたユニークなファンタジー。そんじょそこらに転がっている型にはまったファンタジーとはひと味違う。

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■2002年4/12号『日記をつける』荒川洋治(岩波アクティブ新書)

 ずいぶん前のことだが、演出家・劇作家のつかこうへいが『書くに値する日々』(集英社文庫)という日記のアンソロジーを編んだことがあった。著名な人々の日記の抜粋を集めたものなのだが、日記とは、これほどおもしろいのかと驚いたものだ。
 それと同じくらいおもしろい日記に関する本が出た。荒川洋治のエッセイ集だ。これはすごい本だ。なにがすごいといって、引用され紹介されている日記が、樋口一葉、内田百閧ゥらゲーテ、ゲバラ、さらに日記を使った文学作品まで、とにかく多種多彩なうえに、それぞれに対する説明が的確で、その説明の言葉そのものが温かく輝いているのだ。
 たとえば、病気の息子を心配する父親の日記を引用して、次のように続ける。
 「日記というものは、何らかの事情で、自分以外の人間が『主人公』になったときは、その『主人公』の立場になって、つけられていくものである。『咽喉がしんどいなり』は、これだけ切りとって読めば、父親がしんどいようなかたちになるものである。文章というものは、方向が決まれば、その方向のものになってしまう。文章は、相手のものになっていくのだ。とてもやさしい気持ちを持ったものなのだ」
 そしてこのエッセイは次のように結ばれる。
 「日記をつけない親でも、わが子のことをこのお父さんのように心配しているものである。こうした日記の存在を子供は知らないし、親も忘れるのだ。でも子供は、そのなかで育つのだ。日記につつまれているのだ」
 ここにも、日記の本質が、言葉の本質がちらりとのぞいている。荒川洋治が「日記」というとき、その「日記」はどこまでもどこまでも広がっていく、ひとつの「力」なのだろう。
 この本は、子供の頃からずっと日記をつけてきた作者の、日記を読む楽しさ、日記をつける楽しさ、日記について考える楽しさ、そして言葉と文章についての、とても楽しいエッセイなのだ。

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■2002年5/3・10合併号『無限の網・草間彌生自伝』(作品社)

 この本を読み始めたのは、ただ草間彌生というアーティストに興味があったからで、まさかヤングアダルト向けに紹介しようなどとはこれっぽっちも思っていなかった。そして読み出したらもう何もかも忘れてしまったから、読んでいる最中も、そんなことは考えもしなかった。そして読み終えて、しばらくして、ぜひここに書かなくちゃと思い立った。
 彼女は60年代、ニューヨークを拠点に非常に前衛的で先鋭的な活動を繰り広げ、ボディ・ペインティング、フリーセックスから反戦運動まで様々な場でハプニングを演出、世界のクサマとして有名になる。これはその芸術家としての半生をまとめあげた自伝で、子どもの頃から現在までが、大きく熱くうねるような文章でつづられている。
 スミレが突然人間の顔をして話しかけてきたりして逃げ帰ってはスケッチブックに絵を描いていた子ども時代から、旧弊な家を飛びだし、保守的な日本から脱出してアメリカにいき、魚屋のくず箱から拾ってきた魚の頭と八百屋の捨てたキャベツで作ったスープを食べながらつかれたように絵を描きまくり、ようやくニューヨークで認められ、オキーフにかわいがられ、ダリやウォーホールと交流を重ねながら、独自の世界を切り開き、ひたすら自分の道を突き進んでいくまでのすさまじい生の記録が、驚くほど豊かな言葉で書かれている。
 「特異児童と不良少女を兼ねた」草間彌生が、世界に体当たりしながら自分の場を捜し求めて苦闘する姿は、悲しいほどにたくましく、あきれてしまうほどに感動的だ。
 「いまが私の人生で一番いい時だと言える気がする。作品がじゃんじゃん作れる。この数年、ものすごい数の作品を作っている。しかし、楽しんで作っているということはない。楽しんで戦争に行く人間がいないように」
 現代の若者に思い切りぶつけてみたい一冊である。

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■2002年6/14号『だれかのいとしいひと』角田光代(白泉社)>

 ヤングアダルト向けの本を中心に書評を書き始めたのが、かれこれ15年くらい前。それ以後いろんな作家を追いかけてきたが、このところ、とくに注目しているのが森絵都、三浦しをん、角田光代。かつて吉田秋生や岡崎京子が活躍しだした頃を思い出してしまう。それぞれにまったくスタイルもタッチも違うけれど、鞭のようにしなやかでのびやかで鋭い感性と、時代をそのまま突きつけてくるような切実さが作品にあふれている。
 角田光代の『だれかのいとしいひと』は、記憶と想い出を核にした小品を八つ集めた短編集。この人の作品は不思議な魅力を持っていて、読むともなく読み始めるとすぐに、すうっとその作品のなかに引きこまれてしまう。いや、作品のほうが微かに温かい霧雨のように、読者の身体のなかに優しくしみこんでくるのかもしれない。
 転校を重ねた彼氏と別れた女の子は、「転校生の会」というものに出席するようになって、だれかの転校にまつわる話をきくうちに、こう思う。「あたしたちは、それぞれの目的地へいくために、うんざりするくらいいろんなバスに乗り続けているのかもしれない。バスに乗り、だれかと出会い、言葉を交わしたり交わさなかったり、おりて乗り換えて、またそこでだれかと出会う。永遠に。どこかへたどりつくまで」
 「ああ、本当に私たちは、笑ってしまうくらい気が合わない」と思っている女の子は、その彼氏といっしょに、高校生の頃にボーイフレンドと凧を埋めた海岸へいき、ふたりで砂浜を掘りながら、こう思う。「両の掌が掘り起こしていくのは砂ではなくていつしか記憶になっている。二人で見上げた凧の角度、曇り空の向こうに光るにせものくさい太陽。私の数メートル先で砂を掘る彼の指先からは、どんな記憶がこぼれ落ちているのだろう」
 ここ数ヶ月の新刊のなかでは、三浦しをんの『秘密の花園』、工藤官九郎の『木更津キャッツアイ』、角田光代の『だれかのいとしいひと』が抜群にいい。

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■2002年7/12号『不美人論』陶智子(平凡社新書)

 アメリカ人やイギリス人(の男)と話していると、よく「日本の女の子って、とてもキュートだよな」といわれる。意外に思われるかもしれないが、フランス人もイタリア人もそういう感想を口にする男が多い。高校生や大学生の女の子は総じて(そうお金はかかっていないけれども)着る物には気をつかっているし、それなりにお化粧もしている。そんな国はほかにない。ある意味、いろんなことに対して敏感なんだと思う。
 しかしその結果が、化粧品業界やアパレル業界やエステ業界の思うがまま……という現状はつまらないし、早く脱出したい(といったところで、アメリカもヨーロッパもみんな広告・宣伝に振りまわされているのは同じなんだけど)。
 というわけで、この『不美人論』はいろんなことを考えなおすには格好の一冊だと思う。古今東西の「美人、不美人」に関する様々なデーターを駆使して、それがいかに一筋縄ではいかないかを証明してくれる。
 美人の要素、不美人の要素を、驚くほど多くの本から引用し、性格・心根から骨相・顔面筋肉、左右対称・不対称、目元・口元・・・と、種種多様な角度から検討していくところは、とても楽しいし、爽快。果てには、富岡多恵子や上田秋成の「女はきたない」「女は醜い」、だから化粧をするのだという意見まで出てくる。  そして結論は「現代の画一化傾向にあるお気軽な美人になるよりも、個性的でインパクトのある不美人になってしまおうではないか」「安直な美人になってしまわないことが一番大切なことなのだ」という結論にいきつく。
 「私だけがもっている私だけの顔、この世の中にたったひとつだけの顔にこだわることこそ不美人への道である。みんな個性的な不美人になろうね」
 賛成するにしろ反発するにせよ、一度は読んでおきたい。

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■2002年8/9・16号『ケルトとローマの息子』ローズマリー・サトクリフ著 灰島かり訳(ほるぷ出版社)
     『ブルーイッシュ』ヴァージニア・ハミルトン著 片岡しのぶ訳(あすなろ書房)

 ローズマリー・サトクリフの作品には、力強くダイナミックな文体で描かれた波瀾万丈の歴史物語が多い。息もつかせぬたくみなストーリーのなかで、ストレートな形で語られる苦難 、復讐、運命、勇気、友情、愛……。『宝島』や『十五少年漂流記』や『洞窟の女王』の好きな読者にはもってこいだと思う。イギリスを代表する児童文学作家というよりは、子どもから大人までだれでも楽しめる冒険小説の作家だ。
 『ケルトとローマの息子』の主人公は、ブリテン島に住むケルト人に拾われたローマ人の男の子ベリック。ベリックはやがてよそ者としてケルトの村を追われ、旅の途中で奴隷商人につかまり、ローマ軍団の司令官の屋敷に売られてしまう。そして脱走したところを盗賊と間違えられてローマ軍に逮捕され……という、読み出したらもう途中ではやめられない痛快無比の骨太の小説。女の子っぽい本は苦手というヤングアダルトにはこれ!
 ベリックはケルト人からもローマ人からも受け入れてもらえなくて悩むが、現代アメリカの作家ヴァージニア・ハミルトンは黒人とアメリカ・インディアンの血を引いていて、そういうアイデンティティの問題がよく作品に反映されている。
 『ブルーイッシュ』に登場する車椅子の女の子は、黒人とユダヤ人の血を引いている。この小説は、そのブルーイッシュというあだ名の女の子と、それを取り巻く女の子との触れあいを描いているのだが、その舞台になっているニューヨークの街そのものが、やはりいろんな人種が入りまじっている。だから「うちの家族はクリスマスが好き。アメリカのお祝いだから。でも、宗教はヒンズー教です。父さんがインド人なの」という言葉も出てくる。そういったニューヨークを写しとったかのような学校で、白血病のブルーイッシュに友だちができていく。同情や哀れみからではない、本物の友だちが。
 今年の二月、ハミルトンがなくなった。サトクリフがなくなってちょうど十年たつ。

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■2002年9/13号『きみとあるけば』伊集院静+堂本剛(朝日新聞社)

 『調理場という戦場』(斉須政雄著)を読んで、大いに感動。ここで紹介しようと思ったら、出版されたのが6月だった。しかし興味のある人はぜひ読んでみてほしい。ろくにフランス語もしゃべれないのに、単身フランスのレストランに飛びこんでいった青年のコック修業顛末記。とくに「毎日プレッシャーで押しつぶされそう」だった最初の数年のエピソードはどれも強烈で、さわやかで、若さに満ちている。若さとは何か、日本人とは何か、料理とは何か……様々なことについて考えさせてくれる好エッセイだ。「一生懸命に仕事をやっている人には、一生懸命な人の言葉しか通じないのです」といった言葉も、この本のなかで読むからこそ強く印象に残る。この本、『美味しんぼう』の五十倍、刺激的で楽しい……といえば学生も読むだろう。
 さて、今回は『きみとあるけば』。とにかく、エッセイがいい。最近飼いだした犬の話をからめながら、淡々と語られる少年の頃の思い出のひとつひとつが胸にすっと入ってくる。醤油工場の軒下で雨宿りをしていた兄妹に傘を貸したことから知り合い、いっしょに遊ぶようになるが、やがて妹のほうが死んでしまう「長靴の音色」は、とくに心に響く。こんなエピソードをさりげなく、てらいなく、さらっと語って、そのくせしっかり余韻を残す、こういうところが作者の持ち味だろう。そして途中に差し挟まれる言葉が、それをさらに引き立てる。
 「あの雨の日、見知らぬ町で雨に遭った二人は、さぞ不安な気持ちで雨だれを見つめていたことだろう。私たちは友だちになることができた。三人にとって幸運なめぐり逢いであったのだろう。しかし私たちは今こうして生きていて、街を、道を、歩いていても、そんな不安を抱いている人がいることに気付かなくなっている。今、思うと、少年の日であったから、私は二人に逢えた気がする。おそらく私自身も胸のどこかに不安を抱いて歩いていたのだろう」

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■2002年10/11号『「シャッキッと炒める」を英語で言うと』加藤祐子(幻冬舎)

 同じような海外経験をしても人によって受け止め方がずいぶん違う。「日本て躾がなってない。イギリスを見てご覧なさい!」という人もあれば、「イギリスって、実際、都市部は物騒だよな。日本はほんと、安全だ」という人もある。「日本人の母親はけしからん。アメリカ人の母親は弁当を作ることに生きがいを感じているんだぞ!」という人もあれば、「アメリカの弁当って、パンにピーナツバターとジャム塗って、あとポテトチップの小袋そえただけなんだよな」という人もある。こういう主張をきかされると、いつも首をかしげてしまう。「イギリスは」とか「アメリカは」とかいえるほど、その国を知ってるのかよ、と思ってしまうのだ。日本人だって日本のことをろくに知らないというのに。。
 そういう知ったかぶりの不愉快な外国エッセイばかりが流行るなかで、この本はとても新鮮だった。これは作者が女性誌の編集を辞めてアメリカに渡り、ベジタリアンの市民団体に就職して、次々に降りかかる災難とアクシデントにも負けず奮闘したときのエッセイ。あれこれとまどいながらも、少しずつまわりになじんでいき、少しずつその国のことがわかっていく様子が、手に取るように描かれている。そうそう、海外で暮らすって、こういうことなんだよなと思う。学ぶ、身につけるというのは、まさにこういうことなのだ。その苦労と楽しさ、この本はそれにあふれている。。
 「これはアマザーキ、日本の飲み物よ」。
 サンプルを配るアメリカ人のお姉さんが立ち止まった私に、気に入ったと勘違いしたのか、話しかけてきた。アマザーキ? なんだろう、と改めて展示されている商品を見ると、AMAZAKEと書いてある。これが甘酒? 色だって茶色いぞ!
 「これはヘーゼルナッツ味(hazelnut flavor)で、バニラ(vanilla)やモカ(mocha)もあるのよ」

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■2002年11/8号『臨機応答・変問自在2』森博嗣(集英社新書)

 待望の『臨機応答・変問自在2』が出た。即、紹介ですね。こういう面白くてたまらない本は。『1』を勧めて、喜ばれたことはあっても、怒られたことは一度もない。とくに大学生と大学院生にはばか受けだった。説明不要、問答無用の最高にクールな本。もしかしたらこのシリーズが、ミステリ作家森博嗣の最高傑作として後世まで残るかもしれない。
 〈一般的な質問〉〈多少サイエンス風味の質問〉〈小説家としての森博嗣に対する質問〉といった様々な質問に臨機応変、当意即妙、一瀉千里、軽妙洒脱な答えがぽんぽんと、たまにフェイントがかかって出てくるところは、まるでモグラたたきのモグラのようである。
 たとえば、「電車は何故カーブを曲がることができるんですか? 平行な二本の線路で、シャフトにつながれた二つの車輪では、直進しかできないような気がするのですが」とか「二十一世紀の自動車デザインの方向性について、予測をお聞かせ下さい」といった、まっとうな質問にはまっとうに答え、「夢のかけらを拾い集めてみたところでいったいどうなるのでしょうか」とか「アポロの月面着陸は嘘だったという噂について、先生はどう思われますか」といった、どうしようもない質問には、どうしようもなく答えてみせる。
 『1』のほうは大学生からの質問に対する答えを集めたものだったが、今回はネットで寄せられた質問への答えを集めたもの。そのぶん、マニアックな質問や、かなり『1』を意識しての質問が多く、質問の内容は濃い。しかし、対する森博嗣は、返すときは返し、かわすときはかわすという従来の姿勢をまったく崩さず、手際よく体裁よく小気味よく、こなしてみせる。そしてその返した答えもかわした答えも、すべてが読者の期待や予想を半分裏切っている……そのたびに、「やられた!」と思わずつぶやいてしまう。その悔しさと快感。これこそミステリーの神髄なのではないだろうか。

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■2002年12/13号『黄色い目の魚』佐藤多佳子(新潮社)

「いわゆる一般文学や児童文学からはずれたところから、ちょっと気になる本が飛び出した。佐藤多佳子の『サマータイム』がそれ……普通ならセンチメンタルに流れてしまうところをぎりぎりのところでふみとどまりながら、さわやかで強烈な青春小説にしてしまった……吉田秋生でも……吉本ばななでもない、新しい感性の誕生」
 朝日新聞の「ヤングアダルト招待席」でこう書いたのはもう十年以上前のこと。佐藤多佳子はそれ以後、コンスタントにいい作品を書き続け、ついに『しゃべれども しゃべれども』というほれぼれするような作品を書き上げた。そして今度は『黄色い目の魚』。
 この連作集は、みのりと悟が交互に語っていく青春ラブストーリー……などと安易にまとめてしまってはいけないのだと思う。
 みのりは家に居場所がなく、友達を作るのが面倒でクラスでも浮いていて、漫画家・イラストレーターの叔父のアトリエに入り浸っている。悟は元気なサッカー少年だが、何事に対してもマジになれない。「マジになると結果が出る。すべて曖昧なままにしておけば、誰に何を言われてもヘラヘラ笑っていられる」悟の父はある意味、ろくでなしで、いいかげんで、絵ばかり描いて死んでいった。もしかしたら似ているのかもしれない。
 叔父に憧れ、悟にひかれていくみのり。あることからみのりの絵を描くことになり、なかなか描けずに真剣になり、必死になっていく悟。最初は恋でもなんでもないと思いこんでいたふたりが、あるときから突然不安になり、自分の気持ちと相手の気持ちを手探るようにしながら、突き進んでいく。しかしまわりでは様々な事件が起こり、ふたりを激しく揺さぶる。息苦しくなるような、痛み、切なさ、あせり、がぎりぎりと伝わってくる。
 この連作集、最初の短編からいきなり、読者の心をワシづかみにして、最後まで放さない。
 今年、最高の一冊!

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■2003年1/10・17合併号『キッズだけじゃもったいないブックス』(ペイパーウェイト・ブックス)

 高校に入ったばかりの頃、そこそこ英語のできた金原は、なにか原書で一冊読もうと思い、サン・テグジュペリ作『星の王子様』の英訳本を買ってみたところ、わずか数ページで挫折。その後も、『不思議の国のアリス』『ユダヤのジョーク集』『タンポポのお酒』などなど、次々に挑戦して、すべて序盤で敗退。
 いま考えてみれば当然。どれも見かけによらず、英語が(かなり、いや、とても)難しいのだ。金原はそんなことはちっとも知らず、その後、英語が読めないというコンプレックスに悩まされ、英語が嫌いになってしまう。  もしあのとき、こんなガイドブックがあったら、自分の人生は大きく変わっていたかもしれない……と思わせるような本が出た! そう、出たのだ!
 英語で書かれた絵本、児童書、ヤングアダルト向けの作品まで、全267冊が紹介してある。それも白黒ながら、表紙の写真入りで。だから、表紙をながめながら、解説を読むだけでも楽しい。
 そのうえ、巻末のインデックスも充実していて、作者やタイトルだけでなく、キーワード(成長、生と死、祖国、戦争、旅、知恵など)からも本をさがせるようになっている。さらに英語の難易度が4段階でつけてある。またおもしろいのは「英語教師の目」というコーナーで、ここでは英語の副読本にもってこいの本が50冊ほどピックアップされている。また選書にもこだわりがあって、エスニック・グループ(黒人、メキシコ系、アジア系など)の作家の作品がかなり取り上げられているし、日本ではまずお目にかかることのない(おそらく翻訳されることもない)詩の本がまじっているのもうれしい。
 英語の好きな人、本物の英語に触れたい人、腕試しのしたい人、そしてなにより英語の嫌いな人には、とくにお勧めの一冊!

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■2003年2/14号『歌う生物学・必修編』本川達雄(TBSブリタニカ)

 最近、会う人ごとに勧めているのが、この『歌う生物学・必修編』。発想がすごい。高校の生物の教科書の内容を、全70曲の歌で覚えてしまおうというのだ。
 「誤解しやすい五界説/巨大コンブもアメーバも/おんなじ仲間に入ってる/ケイ藻 紅藻 ゾウリムシ/植物の祖先緑藻も/みんな原生生物界」(「五界説」の二番の歌詞)
 こういった歌に、わかりやすい解説がついている。たとえば、「五界説」に関してはこんな感じだ。昔の生物学は「動物・植物」の二界説だったのが、顕微鏡が発明されて単細胞の生物が発見され、これを足して三界説になるが、電子顕微鏡ができて細胞の細かい構造の違いがわかるようになり、やがて五界説が提案されるようになる(モネラ界、原生生物界、菌界、植物界、動物界)。そしてこの分類によると、普通人の感覚ではちょっと考えられないかもしれないが、巨大コンブ(ジャイアント・ケルプ)も単細胞の真核生物もすべて原生生物界に入る。というふうなことがユーモアたっぷりに説明されている。
 かしこの解説のすばらしいところは、単なる教科書的な知識の説明に終わらず、もっと大きなところにまで目を向けていることだろう。たとえば次のような指摘。
 「五界説は『説』。こう考えようではないか、という提案なのである……学問の中の正解が、日常生活の正解と同じわけではない……そもそも自然の中に区切りなど存在しない。区切りをもちこむのは、われわれの理性である。自然を区切って整理して、理解しやすくするのが学問」
 作者は、『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書)という意表をつく生物学の啓蒙書で、世間をあっと言わせた本川達雄。東京工業大学教授の本川先生みずから、歌をうたっていらっしゃる。最後になったが、この本、楽譜、解説のほか、CD3枚付きである。

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■2003年3/14号『イラン映画をみに行こう』(ブルース・インターアクションズ)

 くたびれたおじさんが勤めを終えて家に帰ってきて、TVで映画を観るとしたら、それはアクションが派手で、有名な俳優の出ている、肩の凝らないエンタテイメント、ハリウッド映画でいいのかもしれない。しかしそれではつまらない、ファーストフードの味に慣れてしまいたくないと思っている若い映画ファンには、この本を薦めたい!
 イラン映画って、ほんとにいいと思う。キアロスタミ監督の『友だちのうちはどこ?』『オリーブの林をぬけて』、マフマルバフ監督の『パンと植木鉢』、マジディ監督の『運動靴と赤い金魚』、ジャリリ監督の『キシュ島の物語』などなど。どれもすごい。みていて、胸がきゅーっとなる。イラン映画って、どうしてこんなに迫ってくるんだろう。不思議で不思議でしょうがない。中国映画も、韓国映画も、インド映画もそれぞれに魅力的だけど、イラン映画のこの魅力はなんなんだ!?
 考えてみれば、極東の日本と中東のイラン。どこにも共通するものなんかないような気がする。それなのに、なぜかとことん迫ってくる。それについて絵本作家の五味太郎がこんなことをいっている。「もう、ちょっとたまらないんだよね。でもそれがなんで?って、お前そういう過去があるの?って言われたら、そんなことではなくて、もう非常に共通したせつなさみたいなものがあるんだよね」
 ただ面白い、エキサイティングだ、わくわくする……というだけが映画の面白さじゃない。それとはまったくべつな、心をわしづかみにしてしまうような映画もあるんだ……ということをこの本は教えてくれる。そう、ファーストフードのハンバーグだけが、ハンバーグじゃない。ずっとこくがあって、ずっとジューシーで、ずっと野性的なハンバーグもあるんだ。そういうハンバーグを思い切りかみしめることのできる歯と、そういうハンバーグをおいしいとおもう舌は、いくら年をとっても持っていたいと思う。

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■2003年4/11号『暮らしの手帖「叱る!!」』(暮らしの手帖社)

 これほど徹底した「おじさん・おばさん本」はちょっと珍しい。書き手もおじさん・おばさんだし、出版社もおじさん・おばさんをターゲットに考えているんだろうし、おそらく編集者もおじさん・おばさんだろう。しかし今回は、あえてこの本をここで紹介しようと思う。いや、素晴らしい本だからぜひ読んでほしいという意味ではない。「叱る立場」にいるおじさん・おばさんの考え方がとてよくわかるし、それは「叱られる立場」にいる子供や若者にとって、とても参考になるだろうし(あるいは武器にもなる)、なにより面白いと思うからだ。
 あとがきにはこんなふうに書かれている。
 「この日本から『叱る』文化が衰退してしまったという声が出始めて久しい。よく見かけるのが『叱る』ことと『怒る』こととの区別もつかない両親、教師、上司たちである。愛情と勇気。この二つの要素が『叱る』ための最高最大のエネルギーとなる」
 しかしここには、そういう現代を嘆く声ばかりが集められているかというと、そうでもない。作家、教授、弁護士、新聞記者、エッセイストなど、いろんな人が「叱る」をテーマに、エッセイや思い出を寄せているのだが、内容も色々。「戦後、欧米型の精神論が導入されたから、日本では教育崩壊が生じた」というものあり、落語の叱り方の紹介あり、「叱ってくれる者がいなかったことを、不幸には思わない」という意見あり、説教臭いものから、威張った感じのものから、しんみり心に響くものまで、もう、とにかく様々だ!
 だから子供や若者が読んでも、それなりに面白い。「あんたみたいな人に言われたかないよ」と思うこともあれば、「あ、この人のいってること、すっごくよくわかる」と思うこともあるはずだ。そして、もしかしたら、大人をみる目が少し変わるかもしれない。

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■2003年5月/2・9合併号『14歳からの哲学』池田晶子(トランスビュー)

 不況のときこそ、その国の成熟度がわかる。文化・教育・福祉、金がないからといって、ここから予算を削っていくような国は最低だ。また不況のときこそ、その国民の知的成熟度がわかる。金がないからといって、法学部、経営学部、医学部、工学部といった実学に志願者が集中するような国は嘆かわしい。しかし日本は、そういう意味で、最低であり、嘆かわしい。虚学の中心ともいえる文学部・哲学科の志願者が目に見えて減っていき、これを廃止する大学まで出てきた。恥を知れといいたい。
 しかし、そう捨てたものでもないという気もする。というのは、『14歳からの哲学:考えるための教科書』という素敵な本が出たからだ。これは徹底的にやさしい言葉で、徹底的に深く考えてみようという画期的な本で、いわゆる哲学入門書とはまったく異なっている。ソクラテス、プラトンといった哲学者の名前も出てこないし、実存、構造、ポストモダンといった用語も出てこない。出てくるのは、「生きる」「美しい」「正しい」「思う」といった、ありふれた言葉だ。
 たとえば「死」について考える。「死体のどこに、死があるのだろうか。死体から死を取り出して見ることができるだろうか……死体は見ることができるけど、死は見ることができない……『自分が死ぬ』ということはどういうことなんだろうか……自分の肉体のすべてが『なくなる』、こう思うことはできる。でも、そう思っているこの自分が『なくなる』、これを考えることができるだろうか……じゃあ……『自分がない』を考えてみよう……」
 という具合に、どこまでも考えていく。生と死について、心について、恋愛や性について、宇宙について、歴史について、存在について……読んでいくうちに、ぞくぞくしてくる。そう、これは考える方法について、とてもわかりやすく説明した本なのだ。
 こういう本は若者だけでなく大人にも売れなくてはいけないと、心から思う。

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■2003年6/13号『身捨つるほどの祖国はありや』寺山修司(PARCO出版)
   『踊りたいけど踊れない』寺山修司+宇野亜喜良(アートン)

 今年は寺山修司没後20年にあたるらしく、演劇のほうでも出版のほうでも、それに向けた好企画が次々に出てきている。観客と読者は、高校生大学生、それからおそらく十代、二十代の女性だろう。あとは団塊の世代前後かな。しかしこれを機会に、できるだけ若い人たちに寺山修司の魅力を知ってほしいと思う。
 入門書としては『身捨つるほどの祖国はありや:寺山修司名言集』(PARCO出版)がおもしろい。色んな作品からテーマ別に(「旅」「自由」「家出」「思い出」「過去」「時間」「記憶」……)、はっとするような言葉が抜き出されている。
 「この世でいちばん遠い場所は自分自身の心である」 「『自由』という言葉と『明日』という言葉は似ているのであって、それが現在形で手に入ったと思うときは死を意味しているのです」
 「人は『時を見る』ことなどできない。見ることができるのは『時計』なのである」
 といった具合。どれもわかりやすく、ほどよくセンチメンタルで、心にしみるし、たまに軽い毒も混じっている。
 また『踊りたいけど踊れない』は寺山修司の短編や詩に宇野亜喜良が絵をつけたもの。寺山+宇野のコンビによる作品は、本や演劇をふくめかなりの数になるが、いまでもかなりのインパクトを持っている。そしてこの新作も、そのいい部分が全面に出ている。いやらしくておしゃれで、エロティックでモダン。それがこの本のタイトルと表紙に凝縮されている。知らん顔して、中学校や高校の教壇に置いておいてほしい。それが無理なら、図書館の目立つ棚に二三冊、並べてみてほしい。学生はきっと手に取る。そしてそのなかの数人はきっと、寺山のさらに暗く猥雑な世界にのめりこんでいくにちがいない。
 そういう犯罪にも近い読書体験の入り口として、これら二冊は最適かもしれない。

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■2003年7/11号『活発な暗闇』江國香織(いそっぷ社)

 江國香織は子どもの本を書かせてもうまいし、大人向けの本を書かせてもうまいし、詩を書かせてもうまい……すごいなと思っていたら、じつは、詩を編ませても素晴らしいということがわかった。
 ここには60編ほどの短い詩が集められている。カーヴァー、ブローティガン、プレヴェール、ロルカ、デ・ラ・メア、ファージョン、中原中也、堀口大學、室生犀星、谷川俊太郎、片山令子といった東西の有名な作家・詩人のものばかりだ。ところが、普通の詩のアンソロジーにのっているようなポピュラーな詩がほとんどない。そのくせ、そのひとつひとつが際だっていて、独自の存在感をもって迫ってくる。江國香織の指が触れたとたん、それぞれの詩が輝きだすのではないかと思ってしまうくらいだ。
 さらに、詩にそえられている短い解説が、とても個性的なのに、驚くほど的確で挑発的なのだ。
 「清々しい眼球で見て、切り取った風景。中原中也の詩にはそういう印象があります」
 「弱っちい感じの、名小品を並べてみました。どれもうす青い心臓で書かれたような手触りですが、一つずつが確かに独特で、つくづく、文ハ人ナリと思います。美しいです」
 「すとんと腑に落ちる、しずかで美しい配列の言葉たち」
 「小説みたい。ぱっとしてる。ぱっとしている、のは本当に大事なことです。書く人は、本当はみんなぱっとしたいんだと思う。そう思っていなくちゃいけないはずです」
 これほど作者の癖と好みが強く表れた詩のアンソロジーは珍しい。この本もまた、強烈に、そして鮮やかに江國香織の本なのだ。なぜこんなにわがままな本が、こんなに魅力的なのか、不思議でたまらない。

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■2003年8/8号『ピースローソク』辻信一対話集(ゆっくり堂)

 戦後、日本は忙しかった、あわただしかった。後ろから何かに追いかけられているかのように、ひたすら「よりよい明日」を夢見て走ってきた。しかし、戦後六十年近くになって振り返ってみると、獲得したものよりも失ったもののほうが大きいような気がしてくるのはなぜだろう。そんなことを考えたのは、『ピースローソク』を読んだからだった。これは去年、『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)で、「スローな生活」を提唱して、注目を浴びた辻信一のいろんな人との対話集だ。対話の相手は、鶴見俊輔(哲学者)、本橋成一(写真家)、古田菜穂子(プランナー)、金井重(旅人)などなど。

 辻信一 ダグラス・スミスによれば、競争主義、競争社会というのを支えているのは恐怖だというわけですよ。つまり、我々はさんざん社会におどしつけられているわけ。頑張らない奴はさびしい思いをするぞ、貧乏をするぞ。いじめられるぞ。取り残されるぞ……ぼくらは、そういう競争社会の囁きというのを背負って生きている。でも、ほんとうの意味での文化というか、それに抵抗するものを持っていたと思うんです。 坂本龍一 ぼくは、そのレールから降りて、日本は美しい三等国になればいいと思うんです。食べ物がおいしく、風景もきれいで、自然も豊かな日本だったらいいじゃないですか。

 いまの日本人はリストラで職を失い、職にありつこうと必死になっている人と、会社の人員削減態勢で異様に忙しくなっている人に二分できるかもしれない。どちらも決して幸福ではない。そのどちらしかないと思いこんでいる大人はそれでいい。しかしまだ若い人たちにはぜひ、それ以外の道も考えてみてほしいと思う。  砂漠のような心にじわっとしみこんでいく本です。

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■2003年9/12号『回転ドアは、順番に』穂村弘+東直子(全日出版)

 そういえば、谷川俊太郎が50年ほど前に出した初期詩集『愛について』(新宿書房)のなかに、こんな詩がある。「おまえの夜の中のぼくらの/昼 その青空をたしかめるためぼくは云う/おやすみ佐和子 おまえを愛する と」
 そういえば、白秋は道ならぬ恋に落ち、一夜を過ごした愛人を見送りながら、こんな歌を作った。「君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」(『北原白秋歌集』岩波文庫)
 「恋」や「愛」が見事な「詩」や「歌」に結晶した姿は最高に美しく、快く、なまめかしい。しかし残念なことに、片方が詩人か歌人で、その気持ちを一方的に詠むだけ、ということが多い。双方が詩人か歌人で、おたがいに詩や歌でもって、その気持ちをやりとりした詩集や歌集というのは意外に少ない。ところが、そういう作品が出現した。
 「向日葵がひかりの方にゆっくり顔をあげるのも。/強すぎるひかりに、しずかにうつむきはじめるのも。/ここで動かずにいることも。/ここにいて、よかった。/夜がきれい」
 「窓という窓から月は注がれて ホッチキスのごとき口づけ」(ゴチ)
 「カレーライスを食べ終わったきみが、/スプーンで、/夜空をひょいっとすくって、/ぱくっと口に入れた。/『なに、食べたの?』『飛行機』『おいしい?』『うん、ピクルスっぽい』」(ゴチ)
 「ジェット機のつばさのかたちなぞりつつあなたは海がこわいと泣いた」
 「冷蔵庫の扉を細く開けたままスリッパのまま抱き合う夜は」(ゴチ)
 という、メールでの詩や短歌の、ふたりやりとりが一冊の本にまとまった。ちょっと注目の一冊である。「若者よ、メールでもいい、アイモードでもいい、こういう恋のやりとりをやってみないか」といいたくなってしまう。
 ただ、このふたりが本当の恋人同士であるのかどうか、それは不明なのだが。

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■2003年10/10号『プロ家庭教師の技』丸谷馨(講談社現代新書)

 アルバイトでやっている大学生から年収1500万円のトップクラスのプロまで、様々な家庭教師にあたってまとめあげたこの本、いろんな人にとっておもしろい一冊だと思う。たとえば家庭教師をしている、あるいはこれからしようと思っている人たち。子どものために家庭教師を雇っている親たち。しかしこの本を読んでいちばん得るところが多いのは、家庭教師をつけてもらっている(あるいは、つけられている)中高生だろう。
 それは目次を見てもすぐにわかる。「生活改善を必要とする生徒へ」(不登校生などへの対処)「成績不振の生徒へ」「成績優秀な生徒へ」「つまずき解消! 家庭教師のテクニック」(〈国語力はすべての教科の基礎〉などの指摘あり)「家庭教師業界の実態」(家庭教師のここ4、50年の変化と、最近の傾向などが解説されている)「家庭教師の使い方」
 このうちのどれにもあてはまらない学生なんか、いるはずがない。
 その他、いろんな統計や資料を駆使しての指摘や問題提起はそれぞれ、いろんな意味で興味深い(「文部科学省の2002年秋の調査によると、完全学校週5日制で小中校生のほぼ三人に一人が『することがなくてつまらない』と思っていることが分かった」とか)
 庭教師というと、親がどこかに頼んで(あるいは自分の知り合い関係で見つけてきて)子どもにあてがうというのが普通だったが、これからはもう少し、教えてもらう側も「家庭教師」について知ったり考えたりすることが必要なのかもしれない。「家庭教師」とは何かを問うことは、「なんのために勉強するのか」ということに直結しているのだから。
 自分はいったい何を教えてほしいのか、何を知りたいのか……若い人びとには、なによりそれを考えてほしい。それは、自分を考えるということもでもあるのだから。
 この本は、反発したくなるところも多いと思うが、考えるためのヒントにはなるかもしれない。反論するところは反論して、参考にするところは参考にすれば、学ぶところは少なくない。

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■2003年11/14号『鉄道ひとつばなし』原武史(講談社現代新書)

 「鉄道の発達は、近代日本の歩みそのものであった」ということは、鉄道を調べれば、近代から現代までの日本の様々なことがわかるということだ。ということは、この本を一冊読めば、かなり歴史的社会的視野が広がるということだ。
 天皇と鉄道の関係(JR中央線の起点である東京駅は天皇が地方訪問の際に利用する玄関駅として開業したものであり、終点である高尾駅は大正天皇陵の最寄り駅であった)、有名人と鉄道の関係(平塚らいてう、柳田國男、永井荷風、ヒットラーなど)、関東と関西の駅名の興味深い違い(「谷」や「町」といった漢字を、関東では「や」「ちょう」と読み、関西では「たに」「まち」と読むことが多い)……どれもが豆知識に終わらず、それこそ歴史や社会に結びついている。
 その他、厳しいコメントもおもしろい。「JR西日本が営業する大阪環状線と片町線で、午後九時までに限り女性専用車両が導入された。ようやく私の提言が実現されたのは喜ばしいものの、またしても関西である。なぜ関東のJRや私鉄は、いつも思い切ったサービスで関西に後れをとるのか」
 それにしても、鉄道マニアは驚くほど男性が多い。女性は鉄道を使っての「旅」は好きだが、「鉄道」そのものにはあまり興味はないのかもしれない。これについて、作者はこう分析している。「東京を中心として、全国に延びる鉄道は、もっぱら国家的価値を体現し、軍事的価値を帯びたものになる。誤解を恐れずにいえば、開業式に先立って天皇が鉄道に乗った時点で、すでに〈女性〉の排除が運命づけられていたのである」。
 入門書でありながら、思いがけない側面から知的な刺激を与えてくれる、一本筋の通った新書。新書というのはこうあってほしい。

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■2003年12/12号『仮名手本忠臣蔵』橋本治+岡田嘉夫(ポプラ社)

 橋本治の『桃尻語訳・枕草子』が出たときは、思わずうなってしまった。自慢好きで、こましゃくれた清少納言が現代の女の子の口調で語るこの本は、まさに「現代語訳」だった。文句なしの、「一本!」である。こんな方法があったとは! 橋本治はそれからも、『窯変源氏物語』『双調平家物語』などで、日本の古典をぐっと近くに引き寄せてくれた。
 そして今度は歌舞伎シリーズ! それも絵本! ただし翻訳ではなく、抄訳というか翻案というか、ごく短くまとめてある。出版社はポプラ社で、本も一見、「子どもの本です」という顔をしているが、これは小中高大学生から大人まで大いに楽しめる。このシリーズの第一作目は『仮名手本忠臣蔵』である。よくぞここまで手際よく、ていねいに、読みやすく、そして面白くまとめてくれたものだと思う。
 そもそも歌舞伎の『忠臣蔵』(もとは浄瑠璃だったものを大人気により歌舞伎に移植された)は、いくつものストーリーが錯綜していて、細かい部分や、ややこしい人物関係がなかなか捉えきれない。いや歌舞伎通を自称しているくせに、全体像さえしっかりつかめてない人はけっこう多い(典型的な例が金原である。何を隠そう、これを読んで、「あ、そうだったのか!」という発見が三つもあった)。
 それがこの本を読めば、すらすらと頭に入ってくる。まさに「待たれていた本」である。橋本治は、ときどきひょこっと現れて「あ、待たせたね」といってこんな本を差し出す。憎い作家である。
 さらに、この本、岡田嘉夫の絵がいい。いや、素晴らしい! 歌舞伎をモチーフに、ここまで斬新で、めまいのするほど美しい絵を描いた人が今までにいただろうか。書店に平積みしておけば、ほとんどの人がこの表紙を見ただけで、本を開いてみるに違いない。

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copyright © Mizuhito Kanehara

 last updated 2004/2/23